おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

舟を呑む5

元和年間に大阪旧久宝寺町に店舗を出した鴻池新右衛門(新六)ですが、その約5年後の寛永年間には、西に4kmほどのところにある九条村にも拠点を持ち、そこで海運業を始めています。

さて、大坂の「九条」の地名。京都は北から一条から十条まで名称があります。京都の入口として知られる「三条」大橋や弁慶牛若丸の「五条」大橋、京都駅の出口名の「八条」口など。

茨住吉(いばらすみよし)神社 九条村の産土神社です

大坂には「一条」も「八条」もなく、いきなり「九条」。江戸時代のこの場所は、淀川が運んだ土砂が堆積し中州を形成していました。この中州は「なにわ八十島(やそしま)」と呼ばれ多くの島のような状態でしたが、その一つが「九条島」でした。

寛永元年(1624)この地域を幕臣香西晢雲(こうさい しょううん)が開発にあたります。この時に勧請したのが茨住吉神社、建立したお寺が竹林寺です。交友のあった儒学者林羅山(はやし らざん)によって「衢壌(くじょう)島」と名付けられました。

「衢」には「賑やかなちまた」を、「壌」は「土壌」の言葉からわかる通り、「土地」に通じます。友人である晢雲が開発する地域が繫栄するように、という願いが込められたのでしょう。が、「九条」となったのには、諸説ありますが「衢壌」があまりに難しすぎるので定着せず、簡単な字になったという説が有力です。

同じく九条の地に建立された「九島院」 竜宮門が特徴です

鴻池新右衛門(新六)はこの地が開発されるのとほぼ同時期に、拠点を設け、海運業を始めています。自分のところで作った酒を自ら船で江戸へ運ぶことにしたわけですね。

酒以外にも江戸への商品輸送を行っていきますが、さらに追い風が吹きます。寛永十二年(1635)に三代将軍徳川家光が「参勤交代」を制度として命じました。

これにより、西国大名からの輸送依頼を引き受け、大いに成長していきます。正保元年(1644)に高野山にて授戒、2年後妻を失いますが、そこからさらに5年後の慶安三年にこの世を去りました。彼の子孫の話については次回に。