二行ほどの説明文に、「水道橋の名は、江戸名所図会によれば、この橋の下流にかけ樋があったことに由来します。」とあります。「かけ樋」は「懸樋」、つまり川や谷(この場合神田川)を渡るために水道管を両岸に通したということです。
駅から神田川北岸を150Mほど東(下流側、ということです)行くと、「神田上水懸樋跡」の碑があります。
こうして、井の頭池を水源とする神田上水は神田川を渡り、神田、日本橋方面へ地下を流れていきました。配水を担う樋(水道管は)石樋・木樋です。
木樋は、本郷にある水道歴史館(令和2年12月23日以降臨時休館中、隣の公苑は入園できます)の常設展示されています。
www.suidorekishi.jp大久保藤五郎が完成させたのは、神田上水の前身、「小石川上水」と言われていますが、いずれにせよ喫緊の課題であった水の問題を解決した功により、家康から「主水」の名と「山越」と称される名馬を賜りました。藤五郎の子孫は代々「主水」を名乗り、幕府御用達の菓子司を務めています。
「この「主水」、通常は「もんど」と読みます。必殺仕事人の中村主水など・・(同じ世代の人しかわからないかも)
が、藤五郎の賜ったのは「もんと」。「水が濁ってもらっては困る」と濁点を使わぬよう家康から命じられたといわれています。
神田上水の話はここまでですが、幕府のお膝元となり、人口が増加する江戸の水問題はこれだけでは解決せず、新しい上水を作ることになります。
その「玉川上水」のお話に続きます。