おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

伝家の疱瘡~「陽だまりの樹」の舞台をたどる7

今でこそ、大阪と東京は3時間足らずで移動できる時代ですが、鉄道も車もない時代、いきなり江戸で医学所頭取と将軍付の奥医師になってくれと言われても・・というのが正直なところだったでしょう。一度は健康上の理由から断った洪庵ですが、江戸幕府からの度重なる要請を断ることができず、江戸へ行くことを承諾します。

江戸に向かうときに洪庵が詠んだ歌が

寄る辺ぞと思ひしものを難波潟 葦のかりねとなりにけるかな

「難波こそが身を寄せる地だと思っていたが、かりそめのねぐらとなってしまった」と訳せばいいでしょうか、適塾を開いたのが天保9年(1838)ですから、二十数年住み慣れた(江戸・長崎への遊学前の時期を含めると三十年以上になります)大阪の地を離れるのは辛かったことでしょう。

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適塾の二階にある「ズーフ部屋」蘭和辞典が置かれていて、塾生たちが勉学に励みました

江戸に移った後、幕府陸軍の屯所付医師を選出するよう命じられ、7名を推薦しましたが、そのうちの一名が手塚良仙でした。「法眼」という医師として最高の位を得た洪庵ですが、宮仕えの堅苦しさや、江戸での生活の違いがこたえたのでしょう、翌年文久3年(1863)医学所頭取役宅で喀血、窒息により命を落とします。享年54。

洪庵の墓所は長らく住んだ大阪と、江戸の両方にあります。

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本駒込 高林寺にある緒方洪庵の墓

江戸の墓所は、本駒込の高林寺にあり、2M以上ある墓石がひときわ目を引きます。

洪庵が江戸に向かう直前に長崎で修行中の息子に出した手紙の中に、「討死覚悟で罷り出るつもり也、と八重(洪庵の妻)には伝えた」、とありますが、まさに江戸へ向かったことが洪庵の命を縮めた、といえるでしょう。

最後までお付き合いいただきありがとうございました。この項は以上で終わりですが、適塾で撮った写真がまだあるので、次回から種痘以外での洪庵の事績などをご紹介できればと思います。