おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

仰げば尊しわが師の洪庵(「福翁自伝」より)10

緒方洪庵が亡くなったのが文久3年(1863)六月十日のこと。下谷の医学所頭取役宅で医学所頭取役宅で喀血したとの話を耳にした福沢は大いに驚きます。二三日前に洪庵のもとを訪れて、恩師の状況を知っていたのに、何が起こったのかと即刻駆けつけますが、すでに洪庵は亡くなっていました。

門人たちが次々に訪れ、50人余りが詰めかけますが、そのままお通夜となり、皆が起きたままたむろしています。

そこからエピソードは、洪庵を回顧する方向には向かわず、長州藩村田蔵六(のちの大村益次郎)がその場で大いに攘夷決行を主張する姿に驚く話で終わります。恩師の死に臨むにしてはあっさりとした感じですが、これはこの章全体が、日本全体が攘夷に向かっていく様を回顧しているため、そこには触れていないのかと思われます。

「私は実に肝をつぶした」「これはマアどうしたらよかろうかと、まるで夢を見たようなわけ」という表現くらいです。しかし、「福翁自伝」の中で、泰然自若として、世の中の権威などどこ吹く風、という姿勢で、動揺するそぶりの少ない中で、ひとつのエピソード内にこの2つの表現が残されているところ、恩師の死への福沢の動揺を見ることでできる、と考えるのは穿ちすぎでしょうか。

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駒込 高林寺緒方洪庵の追墓碑

また、自伝以外に、「福澤全集緒言」において洪庵について、次のように語っています。

先生の平生、温厚篤実、客に接するにも門生を率いるにも諄々として応対倦まず、誠に類い稀れなる高徳の君子なり

相手が誰であろうと丁寧に接する、という洪庵のことを、3歳で父を亡くした福沢は父のようにも思っていたようです。

独立自尊」が彼のモットーでしたが、その思想は適塾から渡米・渡欧を経て醸成されていったものではないでしょうか。

最後までお付き合いいただきありがとうございました。