前回ご紹介したように、日本における二度目のコレラ流行は安政5年から7年の2年間続きました。このときの感染元はアメリカの軍艦ミシシッピ号からであること
泰平の眠りを覚ます上喜撰たつた四杯で夜も眠れず とは、嘉永6年(1853)の黒船来航時に詠まれた狂歌です。米国軍艦が四隻であったことから四杯というわけですが、その時の一隻がミシシッピ号でした。翌年の日米和親条約締結の際に来航した九隻にもミシシッピ号の名前があります。
このミシシッピ号が中国(清)を経由して長崎港に入ったのが安政5年(1858)5月のことでした。その船員がコレラに罹っており、上陸した際に持ち込んでしまったのです。
瞬く間に西日本に伝播、7月には江戸に達し、更には東北地方にまで大きな被害が出る勢いでした。当然、通り道である大阪でも猛威を振るいます。
その混乱の中で、洪庵が行ったことは患者を診ることだけではありませんでした。「虎狼痢治準」(ころりちじゅん)という冊子を作製、他の医師たちにコレラ対策に役立ててもらうため配布したのです。内容は、当時コレラについてオランダ軍医ポンぺが口授した内容を筆記し、さらに3人の医師が書いたコレラについての書物を訳してまとめたものですが、大流行の混乱の中、洪庵はわずか4,5日でこの冊子を出版しました。
「虎狼痢治準」で検索すると、京都大学貴重資料デジタルアーカイブで電子化した冊子を見る(読む)ことができます。
「陽だまりの樹」でも、江戸でのコロリ(コレラ)流行の様子を描くとともに、手塚良仙がこの本の治療法を実践して、品川のなじみの女性を救う場面が出てきます。
他の医者と正しい治療法を共有し、広く患者を救おうとする洪庵は、塾生たちにも深い感銘と影響を与えたことでしょう。