おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

伝家の疱瘡~「陽だまりの樹」の舞台をたどる6

陽だまりの樹」作品中では、手塚良庵が江戸の種痘所の発起人の中心人物として描かれ、漢方医から命を狙われるシーンがありますが、おそらく脚色ではないかと思います。良庵の娘婿にあたる大槻俊斎が種痘所の頭取(所長といった方がわかりやすいでしょう)になっていることから、俊斎や最初に奥医師となった伊東玄朴らが中心だったと思われます。

伊東玄朴は佐賀鍋島藩士であり、長崎でシーボルトから蘭学を学び、種痘の理論もその時に習得していたでしょう。また、佐賀藩に種痘苗の入手を進言、実際に日本最初にこの方法での種痘が行われたわけですから、玄朴が始め、洪庵が大いに普及させ、改めて江戸での普及に大役を果たした、といえます。

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種痘所の記念碑 前回紹介のお玉が池種痘所跡の北100Mくらいのところにあります

種痘所に場所を提供したのが、勘定奉行も務めた開明派の幕臣川路聖謨(かわじ としあきら 「青天を衝く」では平田満さんが演じています)でした。川路が自分の屋敷内に種痘所の設立したいと、幕府に対して申請書を提出したことで設立が許可されました。安政5年(1858)正月のことです。川路自身、子供のころに疱瘡を患い、あばたがあったといいますから、人一倍種痘所の必要性を感じていたことでしょう。(緒方洪庵も子供のころに疱瘡にかかっています)

時の老中は堀田正睦、下総佐倉藩主で、蘭学を奨励し「蘭癖大名」と呼ばれた人でしたから、川路や蘭方医ともうまがあったのでしょう。蘭方医たちは仲間内で寄付を募り、4ヶ月後の5月、ついにお玉ヶ池種痘所が開所しました。

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ビルの谷間にあるお玉稲荷 お玉が池の跡地です

すでに種痘の効果は大阪や他の地方で知られており、大いに普及しましたが、同じ月、十三代将軍家定の後継問題で、一橋派の粛清が始まります。それにより川路も左遷されました。種痘所が彼の置土産となったのです。

お玉が池種痘所は、その後西洋医学所、医学所等と改称・発展、現在の東京大学医学部の前身となりました。そのため、初代頭取の大槻俊斎は、東京大学医学部の初代総長とみなされています。

大槻俊斎は医学所の頭取も務めますが、文久2年(1862)に亡くなり、二代目の頭取として、緒方洪庵に白羽の矢が立ちます。