おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

仰げば尊しわが師の洪庵(「福翁自伝」より)

ようこそのお運び厚く御礼申し上げます。前の項では、疱瘡、いまでいう天然痘と、日本において種痘が根付くまでのいきさつを、手塚治虫先生の「陽だまりの樹」に沿う形でご紹介しました。

今回は、福翁自伝、つまり福沢諭吉の回顧した緒方洪庵と、また安政期に日本で流行したコロリ(虎列刺とも書きますが、今でいうコレラです)に洪庵がどのように対峙したかなどをご紹介します。

陽だまりの樹」の「あとがきにかえて」の中で、「安政二年、(手塚)良仙は江戸小石川三百坂の家を出て大坂へ向かい、十一月十五日、適塾の門を叩いたのだった」

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適塾玄関から建物内部を覗く

更には「その八か月前、適塾には福沢諭吉が三二八番目の門人として入門しているから、手塚良仙と諭吉とは、いわば”同期の桜”ということになる」とあります。

ちなみに「あとがきにかえて」によると、良仙の門人としての順番は三五九番目とのこと。

福翁自伝では、入塾の翌年そうそう、新春に大阪の蔵屋敷に勤める兄がリューマチに罹り、しまいには右手が使えなくなり、左手で筆を持って書くようになったり、普段お世話になっていた適塾の先輩(岸直輔:加賀藩出身)が腸チフスに罹り、先輩の同郷の書生とともに先輩の看病をしたことが綴られています。

およそ三週間の看病にもかかわらず、先輩は亡くなってしまいました。遺体を火葬場に持っていき、遺骨を故郷に送った後、今度は諭吉の具合が悪くなりました。適塾は皆医者を志して学問に励んでいる(諭吉は砲術を学ぶために入塾していましたが)ので、塾生の誰かに診察してもらったところ、彼もまた腸チフスに罹ってしまったのです。

この続きは次回で。