おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

他抜きつ抜かれつ8

福寿神祠(福寿稲荷とも)は、元々は江戸城内に創建されたものですが、後に浅草橋近くの向柳原町の旗本屋敷に遷り、明治2年(1869)に柳森神社内に合祀されたとのこと。入口には雌雄の狸が迎えてくれます。

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福寿神祠 鳥居の両側に狛狸(?)が

徳川五代将軍綱吉の生母、桂昌院が秘蔵していた狸の木像がご神体だそうで、大奥の女中から厚い崇敬を受けていました。

というのも、桂昌院は元々京都の青物屋(八百屋ですね)の娘で「お玉」といいました。13歳の時に、京都で仕えていた公家の娘が三代将軍家光の側室となったため、世話係(部屋子といいます)として一緒に江戸に下ります。いわゆる「大奥」のなかの女中(女官)として懸命に世話係を務めるお玉に目をとめたのが、大奥で最高の権力者であった「春日局」です。

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柳森神社 本殿 朝七時くらいですが、参拝される方が途切れません

 春日局は、お玉に対し、自分の世話係(部屋子)になるように命じられます。乳母を務めた家光に子供がなかったことから、家光の側室の候補としてお玉に目を付けたのでした。そしてついに17歳の時に、将軍の寵愛を受ける「お手付き」となったのです。

更に20歳の時に家光の四男を産み、その子は「徳松」と名付けられます。これが後の五代将軍綱吉となるのです。といっても当時は長兄・次兄がおり(三男は夭逝)、徳松は序列で三番目です。慶安4年(1651)に家光が没し、長兄・家綱が11歳で四代将軍となると、お玉は20歳半ばで仏門に入り、桂昌院と名乗ると、徳松と一緒に大奥を離れます。徳松は7歳で元服、名を綱吉とし、館林藩二十五万石の城主となります。

学問と仏門にうちこみ、30年が過ぎました。桂昌院が54歳となった延宝8年(1680)、この母子に大きな知らせがもたらされるのです。