おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

蘭世の漢友2

前回写真で紹介した司馬江漢の墓の案内板には、本名が安藤吉次郎であると書かれています。また、墓石には「江漢司馬峻の墓」と彫られています。改名して「司馬峻」を名乗りましたが、「江漢」というのは号である、とも書かれています。

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司馬江漢の墓 案内板

自身が著した「春波楼筆記」の中で、青年期にある儒者の下で漢詩などを作っていましたが、その儒者から漢詩に記す名前は唐風でないと風雅でない、といわれ、名を峻、性を司馬、字を君嶽、号を江漢、峻嶽を名字とした、とあります。「司馬」は当時住んでいた場所が「芝」であったことから唐風に「司馬」としたのだそうです。

江漢(春重)の浮世絵の師匠である鈴木春信は、源内の住んでいたことのある神田白壁町の家の戸主でもあり、その縁で巡り合ったと思われます。江漢は源内より十九歳年下で、源内の鉱山開発の試掘などにも一緒に出向いたこともあったようです。その縁で小田野直武を知り、蘭画の技法を学んだ訳ですね。

源内、直武がこの世を去った後も、洋画の画風を自身の画の中に取り入れ、天明三年(1783)頃から、銅版画の制作を手掛けるようになります。これは洋書に描かれた画図の精緻な表現に魅せられたのがきっかけです。

しかしながら、どのようにしたら銅版を作ったらいいのか、一から調べなければなりませんでした。 江漢の話、続きます。