おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

蘭学こと(ば)始め9

奉行所に出頭した源内は、小伝馬町の牢屋に入れられますが、ひと月ほどの後、牢内で病死します。先に紹介した『聞まゝの記』の話によると、牢の中で破傷風に罹ったのが原因といいます。この他にも人を殺めてしまった自責の念にかられて絶食⇒餓死、という説もあり定かではありません。

今の刑務所と異なり、当時の牢獄は入獄者が増えすぎると牢内で入獄者を間引く(殺す、ということです)他、牢内の生活環境は劣悪でした。とはいえ、浪人とはいっても源内は士分でしたから、町人の入る獄より環境は良かったと思われますが・・・

f:id:tadakaka-munoh:20211116223654j:plain

江戸伝馬町処刑場跡に建立された大安楽寺

五十を超えたあたりの晩年、源内は周囲も驚くほど怒りっぽく感情が不安定になることがありました。また、戯作者・狂歌仲間の大田南畝蜀山人の筆名でも知られます)は、源内から奇妙な絵を見せられたことを書きのこしています。その絵とは、崖の上にいる男が小便をして、その小便を崖の下の男が浴びながら涙を流している、というものでした。

考えようによっては、盲目的に何かをありがたがる世間の人をあざ笑ったのかとも思えますが、崖の上にいるのが源内なのか、それとも崖の下の男なのか・・

いずれにしても、才能を持ち、大きな夢を抱きながら、成し遂げることなく源内は亡くなり、その葬儀は親しい縁者によって執り行われました。

その筆頭が長崎屋で一緒にオランダの文物に触れた杉田玄白でした。

嗟非常人、好非常事、行是非常、何死非常 」 

書き下し:ああ非常の人、非常の事を好み、行ひこれ非常、何ぞ非常に死するや

大意:ああ、尋常でない才能の人よ、好みも行いも常識を超えていた。どうしてこのような尋常でない死に方をしてしまったのか

有名なこの文章を含む碑文は、当初墓の傍らの碑に刻まれました。が、刻まれた文章が罪人を顕彰した内容のため、碑は廃棄されてしまいます。現在残された碑は昭和になって改めて建てられたものです。

f:id:tadakaka-munoh:20211116230627j:plain

平賀源内墓 敷地

源内は亡くなりましたが、「解体新書」の刊行後、蘭学は盛んになっていきます。

次回以降、杉田玄白司馬江漢など蘭学者をとりあげます。