おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

浪費の休日 テレビの泉2

前回写真を掲載した「反射式テレビ受像機」ですが、写真をよく見ると、本体の平面にブラウン管らしきものがあり、本体に付属した蓋の内側にはめ込まれた鏡にその画面が映っています。その点が「反射式」の名前の由来です。

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反射式テレビ受像機 説明(放送博物館

現在のテレビのように画面を垂直して視聴するためには、受像機を横に置く必要があります。が、展示の説明にもありますが、当時はブラウン管の奥行が長く、12インチブラウン管(画面の斜めの長さが12インチ=約30CM)の奥行きは1M近くあったようです。

これでは、場所を取って仕方がないということから、苦肉の策としてブラウン管を上に向け、蓋の鏡で反射して視聴する方法が考えられたのでしょう。

東京で昭和の暮らしを今に伝える博物館として、九段下に、その名もずばり「昭和館」があります。

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昭和の暮らしを今に伝える 九段下「昭和館

昨年七月から今月の28日まで、「昭和のオリンピック」と題した特設展示が行われています。大河ドラマ「いだてん」では、オリンピックを巡る人々のドラマが繰り広げられていましたが、昭和十一年(1936)7月31日には東京オリンピック開催が決定しました。

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特設展示 昭和のオリンピック

開催決定に沸く日本でしたが、日本を取り巻く情勢は悪化していきます。そのため、翌年三月にはすでに東京大会に対する反対意見が、衆議院議員であった河野一郎によって公人として初めて口にされています。この河野一郎が第18回東京オリンピックの担当大臣となったのは歴史の皮肉です。

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「青春オリンピック」昭和十三年公開映画主題歌ポスター(昭和館

日中戦争が勃発し、国家総動員法公布などがあり、新たなスタジアムの建設も困難になりました。それでも昭和十三年(1938)三月のIOCカイロ総会では、IOC委員の嘉納治五郎(「いだてん」では役所広司さんが演じておられました)が、ひとまずの東京開催で意見ををまとめています。しかし、総会からの帰りの船中で嘉納は風邪を悪化させて肺炎となり、五月に船上で亡くなってしまいます。

その後、東京大会は嘉納の努力もむなしく、昭和十三年(1938)七月、嘉納の死から3ヶ月も経たない内に返上することとなってしまったのです。

「反射型テレビ受像機」は昭和十四年(1939)の製品。この年、NHKは三月に有線によるテレビ実験放送を公開、次いで五月には無線によるテレビ実験放送を公開しており、実用化にはあと少しまでのところでした。世界で最初の本格的テレビ放送(試験放送自体は前回のベルリン大会で)の夢は潰えました。

戦前のテレビ開発の話はここまで、次回からは戦後のテレビ草創期の話です。