おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

蒸気機嫌で乗り乗り3

これまで、このブログで江戸時代以前の日付を記載する場合、日本古来の太陰暦による表記(旧暦)で表してきましたが、モレルと鉄道の建設についての記述に関しては、元号表記はそのままに、太陽暦(西洋暦=新暦)で表します。

前回ご紹介したように、モレルが来日したのは明治三年(1870)4月9日のこと。横浜港への入港をはたしたモレルは、建築師長(技術主任)に任命されます。来日してすぐの19日には、伊藤博文(民部大蔵少輔兼会計官権判事⇒現在の財務省局長あたりでしょうか)に対して意見書を提出しています。

この意見書には、彼に委ねられた新橋~横浜間の鉄道建設に関するものだけでなく、その後鉄道の運営・維持に必要な人材教育の必要性も触れられていました。更に翌月28日には、社会インフラ基盤整備などを推進する省庁として工部省(今でいう経済産業省が近いでしょうか)、およびその教育機関である工学寮(工業系の教育機関なので工業大学みたいなもの⇒後に実現し、東大工学部の前身となります)の設置を提言しました。

こうした先を見据えたインフラ整備の省庁や人材育成制度に加え、彼の功績として必ず挙げられるのが、線路に関するものです。民舞大蔵大輔(財務省次官クラス?)の大隈重信と相談、レールの幅(軌間)を祖国イギリスより狭い1,067 mmの狭軌(きょうき)と定めました。

二本のレールの幅を1,067mmとしました

モレルの母国イギリスでは、レールの幅は1,435 mmと定められていました。モレルはそうはせず、狭軌を選択し、採用されました。

これは、同じ距離の鉄道を作るにあたって、線路の幅が狭い方が建設費が安くつき、また山がちの日本では、カーブやトンネルの工事が必要となりますが、これも狭軌の方が工事が容易なことが利点とされたためと思われます。また、狭軌はイギリス植民地の鉄道でも使われており、導入の面でもそれほど支障はなく、閣議において狭軌の採用が決定しました。

レールの幅は決まりましたが、も列のもう一つの功績に関しては次回に。