おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

占わナイト ヨコハマ~♪4

嘉右衛門はこの申し出を辞退します。が、「神奈川から横浜の入江を埋め立てる工事を請け負わせてもらいたい」と願い出ます。

神奈川の青木橋から南の「高島」のあたりを埋め立てる仕事を請け負います

申出は申出として、工事は一般(公開)入札の形をとりました。

この工事には線路短縮のために横浜港を埋め立てた者に鉄道の線路以外の土地を永代拝領する権利を与えるという条件が新政府から出されていましたが、他の入札申込はなく、嘉右衛門の請負が決定しました。明治三年(1870)5月のことです。

他に入札参加者がいなかったのは、「晴天百四十日以内に完成させること」という難題ともいえる条件が嫌われたと思われます。

しかし、埋め立てを完成させた嘉右衛門は、その土地を新政府に献上してしまいます。高島嘉右衛門の偉業を讃え、その土地には「高島町」の名が付けられました。

嘉右衛門が埋立て工事を行った頃の横浜

この埋立地と神奈川青木町のあいだを直通させる必要から、高輪側と同じように、長さ約1.4㎞、幅約77mという築堤を作ることになります。

上の説明板の置かれた京急神奈川駅西側の高台

これも埋立て以上に難しい工事でしたが、嘉右衛門自身が昼夜を問わず工事を指図し、ついに明治四年(1871)2月にこの工事を見事に完成させました。

高島嘉右衛門は、その後日本で初めてのガス会社、横浜瓦斯会社を設立し、横浜の地にガス灯を灯し、その功績で明治天皇に最初に拝謁を許された民間人となりました。

実業家として名を成した嘉右衛門ですが、易断による占いでは更に有名で、現在でも「易聖」として知られます。

「高島先生の碑」高島台の一角に建てられています

明治三年(1870)4月25日に新橋から測量を始め、明治五年(1872)10月31日に芝浦~田町間の築堤石垣積みが完了し、新橋~横浜間全線二十九キロの工事が完成しました。これらの土木工事は、殆ど日本の伝統技術によって築かれ、古来の築城やお台場建設時の技術が活かされたといっていいでしょう。

が、一か所だけ西洋の技術を導入せざるを得ない箇所がありました。日本初の鉄道の橋梁となる、大田区西六郷と川崎を結ぶ六郷川橋梁です。木造トラス構造のこの橋だけはイギリス人の指導の下に建設・架橋されています。

線路が出来上がり、鉄道開通の日が近づいてきました。この続きは次回以降で。