おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

線路は続くよ東京までも11

明治四十三年(1910)9月に新永間市街線は開業しているにもかかわらず、中央停車場はこの時期まだ鉄骨を施工している最中で、本体の工事を施工する業者すら決定していない状態でした。その間仮駅として置かれたのが呉服橋駅です。東京駅から北に300mくらいのところにあったこの駅は、浜松町~烏森(後の新橋)~有楽町~呉服橋という東海道線の支線3.4kmの終点でした。駅の建設工事を通り抜け、横に観ながらこの路線は運行されていたことになりますね。

4年後に中央停車場(東京駅)が開業すると、その役割を終えて廃駅となっています。

翌年明治四十四年(1911)の2月やっと本体工事の業者が決定します。大阪に本拠を置き、数年前に東京進出を果たしたばかりの大林組が工事を請け負うことになりました。

現在の東京駅 復原工事にも大林組は関わっています

大林組八十年史のHPによると、入札には清水組、安藤組と、関西からは大林組だけが指名されました。大阪が地元の大林組がここに名を連ねたのは、明治三十六年(1903)大阪で開催された第五回内国勧業博覧会の各施設を、ほぼ独力で作り上げたのが大きく評価されたとのこと。開札結果は清水組、大林組が偶然にも同額の三九万円余となったため、さらに再入札を行ない、最終的に三八万六〇〇〇円で大林組が落札したのでした。

東京駅の乗車口ホール 日本の他の駅にはない特徴です

工事は三年二カ月ののち大正三年(1914)3月に完成し、8月15日付で鉄道院から感謝状が贈られました。

駅の建築に使われた鉄骨用鋼材は3100万トン、構造用煉瓦は約833万個、化粧用の煉瓦が約93万個使われました。構造用煉瓦は、新永楽線の高架の煉瓦と同じく、日本煉瓦製造会社で作られたものです。この会社は渋沢栄一らが明治二十年(1897)に設立された会でした。渋沢の出身地である埼玉県深谷に工場があり、JR高崎線深谷駅は平成八年(1996)に改築された際、東京駅をモチーフにしたデザインになっています。(この子項を書くまでに見に行くことができず、残念ながら写真がありません)

駅そのものの工事は3月に完成したものの、乗降場の仕上げなどを行い、全工事が完成したのは12月14日のことでした。そして12月18日いよいよ開業式の日を迎えます。

そのお話は次回で。