おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

線路は続くよ東京までも9

駅の構造は鉄骨煉瓦造というものです。明治二十四年(1891)に岐阜県南部を震源とする濃尾地震で、煉瓦造りの建物が倒壊、大きな被害が出たことから、「煉瓦造りは地震に弱い」と地震から10年の間、名古屋の街には煉瓦造りの建物が建たなかった、といわれています。実際には煉瓦造りの建物以外にも倒壊の被害はありましたが、西洋の最新の建築が崩れ去るさまは、人々に大きな衝撃と恐怖感を与えたのでしょう。

濃尾地震以降、鉄筋コンクリート造りの建物も出てきてはいたものの、まだその数は少なく、地震に対する実績も未知数でした。辰野はそれを不安視し、実例が豊富な鉄筋煉瓦造りを採用したのでした。地面に松の杭を打ち込み、その上に鉄骨の躯体を組み、間をレンガで埋める造りです。彼のあだ名は「辰野堅固」だったそうですが、その性格は東京駅の設計にも活かされ、その建築の強度は約十年後に起きた「関東大震災」で証明されることになります。

東京ステーションギャラリーには創建当時の煉瓦積みが残されています。

東京ステーションギャラリーの階段の煉瓦 横に鉄筋構造も見えます

煉瓦のへこんんだところに鉄筋が覗いていて、鉄筋煉瓦造りであることがわかります。また、上の写真でも、ところどころ黒っぽい穴のようなものが見えますが、近くに寄ってみるとこんな感じです。

赤い煉瓦の間に黒っぽい煉瓦?が一緒に見えますが・・?

これは赤煉瓦の合間に、木の煉瓦が使われているためです。仕上げ材を張るために釘や金具を用いるのですが、通常の煉瓦には釘を打ち込んだりすることができないので、ところどころ木材で作られた煉瓦を使用している、というわけです。それにしてもどれもずいぶん黒っぽい色をしていますが、これは東京大空襲の際に焼け焦げた跡だとか。

先に煉瓦の話をしてしまいましたが、中央停車場の基礎工事が始まったのは前出の通り明治四十一年(1908)3月。長さ5~7mという松杭を60cmの間隔で打ち込みました。その数なんと1万本以上。更にその杭の上にコンクリートを打って基礎としました。明治四十二年(1909)8月からは鉄骨の制作・組立が開始されます。

駅建設の話、まだ続きます。