おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

赤穂は野となれ山となれ2

普通なら17日かかるものを4日半で赤穂まで行き着くわけですが、所要時間で割ると時速6キロ足らず、という計算です、これは不眠不休で進んだときのスピードで、実際には途中の休憩などを含めると、少なくとも二、三割増しのスピードはあったと思います。また、担ぐ方の人足は駕篭を4人で担ぎ、その前後に引手と押手が一人ずつ、合計6名で進みます。彼らは途中の宿場で交代する(約10キロごとに宿場がありました)ことができますが、使者である藩士は交代ができません。強烈な揺れと振動を受け続ける旅に耐えるだけの体力が要求されます。そのため、正使が三十歳以上の年配者で、介添えとなる副使は二十歳以上の若者、ということになっていました。駕篭が強烈に揺れるために、舌を噛まないよう、口に布切れや木切れを加えて乗り込みます。「鬼滅の刃」の○○のようなイメージですね。
この時の早駕籠2丁の料金が合わせて20両だったそうです。1両=10万円で計算すると、二人運ぶのに200万円かかった計算です。今の時代だと、一人片道100万円とすると法外な金額のように思えますが、一丁の駕籠を6人✕宿場の数70で計算すると一丁あたり420人の人足が関わっています。また、当時は籠屋の元締めが半分を取り分にしていましたから、残り50万円が420人の駕籠かきの取り分として1200円ちょっと。人足も乗る方も割が合わない話です。

早駕籠も富士山のそばを通ったでしょうが、鑑賞する余裕はなかったでしょう

話がそれてしまいましたが、駕籠で揺られ続けた使者二人は、フラフラになりながら江戸での出来事を家老大石内蔵助に報告します。この二人の使者は殿中での刃傷事件を知るばかりで、内匠頭や赤穂藩への処分については知らされないまま江戸をたっています。大石を始め赤穂藩の面々は、喉から手の出る想いで続報を待ったに違いありません。この時点で大石は藩士に総登城を命じています。
当然、江戸側でも第二の使者をたてています。原惣右衛門と大石瀬左衛門の二人が14日夜更けに早駕籠で出発、こちらも最初の使者が到着した19日のうちに赤穂に到着しました。
そこでもたらされた報告は「主君の切腹」と「赤穂藩の改易」でした。集められた藩士たちにとって、どのように受け止められたのでしょうか。そこから連日、城に集まって今後の対応を議論しています。そのうちに、第一、二報で明らかになっていなかった吉良上野介が生きていることも知らされます。そして吉良家についてお咎めがなかったことも。
これについて家中で大いに議論が湧き上がるのですが、それは次回