おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

赤穂は野となれ山となれ

処分を聞いた内匠頭は「今日不調法なる仕方いかようにも仰せ付けられるべき儀を切腹と仰せ付けられ、有難く存知奉り候」と答えたとあります。現代語に直すと「今日しでかした不調法なやらかしに、どのような処分が下されてもしようがないとこと、切腹を命じられましたこと、有難く承ります」ということです。

切腹=死を命じられて有難い、というのは現在の感覚からすると違和感のある話ですが、斬首と異なり、武士の名誉を保った状態の死なので、「有難い」という感謝の意を表しました。

処分の宣告が終わると、すぐに切腹となりました。田村家の庭に2枚の畳を敷き、その上に毛氈を敷いて行われています。実際の作法では、事前に身を清めるための沐浴や髪を切腹用に結いあげたりするのですが、そうしたことは行われていません。また内匠頭のようなな大名の場合、通常邸内の一室で行われるべきですが、庭先で行わせるのはそれより身分の低い武士への待遇でした。こうした冷遇は面目をつぶされた将軍綱吉の意向があらわれたものと思われます。

泉岳寺にある浅野内匠頭長矩の墓

切腹の際、介錯人であった御徒目付磯田武太夫は、介錯に失敗し二度斬りしたといいます。遺体は浅野家の家臣達によって引き取られ、菩提寺である高輪泉岳寺に埋葬されました。泉岳寺には内匠頭の墓とは別に「血染めの梅・血染めの石」というものが遺されています。内匠頭の血を浴びたと言われている梅の木と石で、切腹の現場である田村邸の庭から移されたものだそうです。

泉岳寺境内の「血染めの梅・血染めの石」

このようにして切腹が行われた一方で、刃傷事件の発生を知らせる早駕籠は、事件当日の未の下刻(午後3時半頃)に赤穂に向かって出発します。内匠頭が田村邸に護送・到着する1時間前にあたります。この二丁の早駕籠に乗っていたのは、早水藤左ヱ門と萱野三平です。江戸から赤穂まではその距離620km、赤穂に到着したのが19日の寅の下刻(午前5時半頃)といいますから、4日半、時間にして108時間というスピードです。これらの報を受けた赤穂の反応は・・次回に。