江戸の庶民は、赤穂浪士の討入りを「忠義の行動」として称賛しており、好意的な目で見ていたようですが、幕府にとっては徒党を組んで旗本の屋敷に押し入り、元当主(養嗣子に家督を譲って隠居)を殺傷するという、ある意味極悪人です。そのため、その処分をどうするか、について幕閣においても様々な議論が行われました。
将軍綱吉の下で大学頭となり、文治政治の推進に努めた林鳳岡(はやし ほうこう)は、大石達元赤穂藩士たちが主君浅野内匠頭の讐を討つ行為は儒教の道義「忠」にかなうものとして、彼らを「義士」として称賛します。一方で法を犯した犯罪者であることから、処罰することはやむを得ない、との論調に立ちました。また、事件当時金沢藩前田家に仕えていた儒者、室鳩巣(むろ きゅうそう)も、「赤穂義人録」を著して浪士たちを賛美しています。
一方、同じ儒学者でも佐藤直方(さとう なおかた)は、「浅野内匠頭による吉良への刃傷事件も喧嘩ではなく内匠頭の暴力に過ぎない」とし、大石らの行為も「幕府を顧みない愚挙に踏み切った逆臣」であるとして批判しています。荻生徂徠(おぎゅう そらい)も、内匠頭は幕府によって処罰され死を賜ったのであり、吉良が内匠頭を殺したわけではないから、「仇討ち」とはいえず、主君の「不義の行為」を引き継いだだけに過ぎないから「義」として認められるものではない、としました。これらは浪士の行為を批判する立場ですが、どちらかというと少数派です。
幕閣においてもそうした議論がされた結果、元
この判決(?)に先立ち、将軍綱吉は1月20日過ぎに「切腹申しつけよ」と断を下しているようです。湯島聖堂をおこし、自ら忠孝を説いた綱吉ですから、討入りの行為に対して、「忠義」であると賞する立場である一方、天下の大法を破
次回、浪士たちの切腹の場面です。