おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

尾張除(よ)ければすべて吉宗3

四谷の屋敷に母本寿院を訪れ、饗応の食膳を終え、(饅頭を食べた)後に急に苦しみだして吐血⇒悶死という異常極まりない死に方をしたのです。近侍していた医師も看病するそぶりがなかった、とも伝えられています。「元禄御畳奉行の日記」として知られる尾張名古屋藩士朝日重章の残した日記「鸚鵡籠中記」には、紀州藩の間者が名古屋藩邸をうかがっているという風聞があった、と記されていました。そのため将軍継嗣争いの中で毒殺された、という見方もされているのです。

七代将軍 家継の墓(増上寺) 

正徳三年(1713)7月のこの死により、嫡男であった五郎太が満2歳で五代藩主となりますが、2ヶ月にして死去、吉通の弟、五郎太の叔父にあたる継友が六代藩主の座に就きました。

正徳六年(1716)に将軍家継が亡くなって後継候補になったのは、この継友と吉宗の二人でした。将軍の側近であった間部詮房新井白石は家継の「継」の字を授かっていた尾張藩主継友を後継に推しますが、反詮房・反白石の幕閣や大奥の意見が吉宗後継を支持し、その結果吉宗が八代将軍の座に就くことになったのでした。

尾張藩には「将軍位を争うべからず」という不文律があり、そのため積極的に継友の将軍位就任運動は行っておらず、そのあたり紀州に後れをとったと思われます。大奥にも紀州から金銭や音物の形で応援の依頼があったと思われるのに対し、尾張が全くそれを行っていなかったとすれば、競争の結果は明らかです。

また、兄たちの倹約令を進化させ、名君として名高かった吉宗に対し、継友の領民からの評判は今一つでした。更には、兄や甥の死によって思いもかけず藩主になった際、嬉しさからか、五郎太が没した翌日に側近や家臣を招いて壮大な酒宴を開いて家老から諫められるという、正直というか不用意な脇の甘い性格だったように思われます。

こうした経緯を経て、吉宗の治世が始まります。次回から将軍吉宗のお話。