おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

尾張除(よ)ければすべて吉宗2

幼くして亡くなった七代将軍家継(この名前も皮肉な感じがしますが)の後継として、「直系としての血のつながり」ということでは、松平清武がいました。この人は六代家宣の弟(母親も同じ)、つまり家継の叔父にあたります。家宣の正室天英院は、当初清武を候補に推したといいます。が、清武はすでに齢54、元々他の家(臣下)に養子に入っていたこともあり、松平姓を名乗れるようになってからまだ10年も経っていませんでした。清武本人にもその気がなく、天英院も主張を取り下げます。これで秀忠〜家光ラインの後継者は無くなりました。

江戸城の中では後継を決めるため各派が暗躍していました

次に候補として挙がるのが「御三家」、ご存知の通り、尾張紀州・水戸の徳川家です。このうち水戸は一段家格が低いため、対象となるのは尾張紀州でした。
その成り立ちからご紹介すると、尾張徳川家の家祖は義直(よしなお)。家康の九男にあたります。一方紀州の家祖頼宣は十男なので、御三家の筆頭は尾張徳川家です。
筆頭>次席という序列からいうと、後継将軍は尾張から出すのが妥当といえますが…
実際、六代家宣も幼少の家継のことが気になったらしく、病床に側近の新井白石を呼び、「跡継ぎが無くはないが、幼い者を立てて世を騒がしくした例も多い。そこで余の跡は尾張の吉通殿に譲ってはどうか。」などと相談をしています。その時は白石が家継を立てて、譜代の臣で補佐すれば大丈夫です、と進言し、そのとおりになったのですが、ここでは「尾張の吉通」が後継候補として挙がっています。
しかしながら、尾張藩四代藩主吉通が将軍になることなくこの世を去るのですが、このあたりはドラマの後半部分でも触れられました。

生母である本寿院は、三代藩主綱誠(つななり/つなのぶ とも)の側室です。綱誠が元禄十二年(1699)年に享年48で急死した後、「行状よろしからず」として幕府から蟄居を命ぜられ、屋敷に幽閉されていました。この母のもとを吉通が訪れ、屋敷で饗応を受けたのですが、事件はその時に起こりました。その事件については次回で。