おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

甘藷感激雨あられ

小石川植物園内に茶色っぽい石の碑があります。でこぼこした表面にそのまま文字が彫られているので、一文字目の「甘」のみははっきりと見えるものの、そのあとがよくわかりません。

小石川植物園

石の前に立てられている案内板を見てみると「甘藷試作跡」とあって、そういわれてみるとそのように彫られているように見えてきます。甘藷(かんしょ)とは案内板にもあるように、「サツマイモ」のことを指しますが、青木文蔵(昆陽)が享保20年(1735)にこの地でサツマイモの栽培を試みたということです。

この案内板も斜めから・・

この記念碑自体は大正10年(1921)に建てられたとのことですが、碑はおそらくサツマイモを連想させるよう、色合い・形が似た自然石を使用したのでしょう。

青木昆陽がサツマイモの栽培を吉宗に進言したのは、その3年前の享保17年(1732)に起きた「享保の大飢饉」が影響しています。江戸時代の四大飢饉の一つとして知られる「享保の大飢饉」ですが、他の3飢饉がどちらかというと東日本・東北を中心に発生しているのに対し、この飢饉は西日本の被害が大きい飢饉でした。

この飢饉の中で、薩摩藩のみは餓死者を出さなかったことから、青木昆陽救荒植物(きゅうこうしょくぶつ:食料不足の時に主食の代用として利用される植物)として「サツマイモ」に注目します。そこで種芋を薩摩から取寄せ、小石川御薬園で試作を始めたのです。

この時、御薬園以外の試作の地として、下総国千葉郡馬加村と上総国山辺郡不動堂村も選ばれました。馬加村(まくわりむら)とは現在の「幕張」のあたり、不動堂村は「九十九里」のあたりです。御薬園と同様、幕張にも「昆陽先生甘藷試作之地」の碑があるばかりか、昆陽神社があって、「芋神様」として祀られているそうです。(残念ながらそちらを訪れたことがなく、写真もありません)

試作を成功させた享保20年(1735)には「蛮薯考(ばんしょこう)」を著してサツマイモの栽培法・貯蔵法などを世に広めました。更に元文元年(1736)には薩摩芋御用掛に任じられ、幕臣となりますが、その続きは次回で。