日本橋小田原町の魚屋・佃屋半右衛門に男の子が生まれたのは元禄11年(1698)のこと。文蔵と呼ばれたその子供は幼いころより本を読むことを好み、将来は学問をしたいとの志を持っていたようです。が、家業は魚屋、両親としては学問に打ち込むのもほどほどに、と思っていたのではないでしょうか。22歳の時に、両親の反対を押しきって京都堀川にあった伊藤東涯(いとう とうがい)の私塾「古義堂」(こぎどう)の門人となりました。
京都で儒学を学ぶとともに「本草学」を知ります。漢方薬の原料となる植物を中心に動物・鉱物について研究する学問です。江戸へ戻ると自分でも私塾を開きながら研究を続けていました。
その昆陽に声をかけ、登用したのが江戸町奉行の大岡忠相です。部下の加藤枝直(かとう えだなお、えなほ、とも)が京都で昆陽と同門であり、忠相に推挙したのでした。
享保の大飢饉で、全国に餓死者が出るほどの惨事となりました。しかし伊予(愛媛県)の大三島でサツマイモが栽培されていたことで餓死者が出なかったことは幕府にも報告が上がっていました。
そのため、サツマイモが飢饉の対策として有効なことはわかっていたものの、それが関東の地でも栽培可能なのかがわからず、それを昆陽に委任することにしたわけです。
飢饉の三年後の享保二十年(1735)年の秋(11月)にサツマイモの収穫が成功、その後関東一円で栽培が行われるようになりました。
幕臣となった昆陽は元文五年(1740)に本草学者仲間の野呂元丈(のろ げんじょう)と共に、吉宗からオランダ語の習得を命ぜられ、実際に長崎に赴きオランダ商館員や通詞(通訳)たちからオランダ語を学んでいます。これが日本における蘭学の先駆けとなり、その志は弟子前野良沢に引き継がれていくのです。
青木昆陽については以上ですが、次回は新しもの好きの吉宗が江戸に連れてきた象のお話を。