おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

そうだ、ライト行こう5

山邑太左衛門がライトに邸宅の設計をオファーすることになった(できた)のには、太左衛門の長女の婿にあたる「星島 二郎(ほししま にろう)が関わっています。東京帝国大学法科大学法律学科を卒業後、弁護士となるかたわら、政界を目指して犬養毅(5・15事件で暗殺された首相ですね)の秘書となりました。

ベランダの花 邸内にはこれ以外にもさまざまに花が飾られます

大正九年(1920)には立憲国民党から総選挙に立候補し初当選、それ以降衆議院議員として戦後は商工大臣や衆議院議長も務めた人物です。弁護士としては日比谷に片山哲らと中央法律事務所を開設しています。片山哲は戦後日本社会党から総理大臣になった人ですから、星島自身もリベラルな思想の持主であったことが伺われます。

3階の天井 こうした幾何学的なデザインが「ライト」を感じさせます

星島は東京大学学生キリスト教青年会(東大学生YMCA)の一員で東京帝国大学基督教青年会館で暮らしていましたが、遠藤新もそこにおり、親友といってよい間柄でした。

「ライト」←(師弟)→「遠藤新」←(友人)→「星島二郎」←(親族)→「山邑太左衛門」という人脈が見えてきます。

ライトが帝国ホテルを設計することを知った山邑太左衛門が、「うちの邸宅も何とかお願いできないだろうか」と娘婿の星島に依頼します。星島は旧友の遠藤を通じてライトに打診、という図式。

この星島↔遠藤のラインは自由学園の設計・建築にも関わってくるのですが、その話は別項にて。

依頼を受けたライトは、設計に取り掛かる前に山邑邸建設予定地を見に行っています。夜行列車で東京を出発して、翌日の朝に神戸に到着するという旅程でした。遠藤新のお孫さんにあたる陶(とう)さんによれば、この見学は1917年初旬のころであったとされ、翌1918年、自身のスタジオである「タリアセン」でこの設計図を描いたそうです。

次回四階の食堂および外部の眺望をご紹介しつつ、この邸宅のその後についてお話します。