おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

新(あらた)なるステージ(舞台)2

林愛作からライトが帝国ホテル新館を設計する話を耳にしたのが影響したのか、彼の卒業制作は「bokuno hotel」(僕のホテル)。周囲が官庁など公共施設をテーマにしていている卒業生が多い中、特殊といってもよい題材をとりあげています。
遠藤の卒業は大正三年(1914)のことで、まだ正式な契約もライトと取り交わす前であり、帝国ホテルも建設予定地の買い入れ交渉が長引き、何も始められない状態でした。そのため卒業後、内務省の臨時職員として、明治神宮造営の仕事をしています。

ここでの勤務時代、開業直後の東京駅(中央停車場)の建築について「東京停車場と感想」という論文を読売新聞に発表、痛烈な批評を述べました。

自由学園講堂 入口からの通路 この部分の天井は低いですが・・

東京駅の設計者は言わずとしれた辰野金吾ジョサイア・コンドルからの流れをくむ日本建築会の重鎮です。この時代に正面だって重鎮にもの申すのですから、中々の鼻っ柱といえるでしょう。

東京駅 丸の内南側 KITTEからの眺め

遠藤は日本の近代建築(当時)の西洋偏重傾向に飽き足らないものを感じていたのではないか、と思います。その点、浮世絵のコレクターでもあり、日本的なものを取り入れるライトに波長が合っていたのでしょう。(帝国ホテル・明日館ともに宇治平等院鳳凰堂の意匠が取り入れられています)
が、この論文が影響したのか、卒業後遠藤はしばらく不遇の時代があったようです。(辰野自身は遠藤を高く評価していたようですが、主流派周囲に睨まれでもしたのかも、と想像してしまいます)
このあたり、この時期のライトの境遇とも何となく似通ったところがあり、心理的にも親近感がわいたのでしょうか。ライトは遠藤を紹介されるとすぐに気に入り、助手として採用します。ライトのスケッチを遠藤が図面として清書する日々が続きます。

が、帝国ホテルの建築地の問題で着工が遅れ、その間ライトは一時帰国することにし、遠藤に一緒に来るよう勧めます。大正六年(1917)4月ライトと遠藤は横浜から出航、ライトの事務所「タリアセン」での修業が始まります。続きは次回に。