おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

新(あらた)なるステージ(舞台)3

ライトと一緒に渡米した当時、遠藤は英語が苦手で、コミュニケーションをとるのに苦労していたようです。苦手といっても洋書を読むような、いわゆる「読解力」については問題ないレベルだったようです。

遠藤は福島県宇多郡福田村(現在の相馬郡新地町)の生まれで、自身の方言にコンプレックスがあったのか、帝大時代から寡黙なところがありました。それが英会話においても影響したようです。あるときライトが髭を生やすように薦め、遠藤は言われた通り、口と顎に髭を伸ばしてみました。

講堂の中まで進むと天井が高くなり、一気に広がりを見せます

すると、英語が滑らかに口にできるようになりました。髭をたくわえたことで新しい自分になったような気がした、とあり、前々回掲載した肖像写真の通りそれ以降の生涯において、髭が彼のトレードマークとなりました。

ライトは遠藤にとって建築思想を叩き込んでくれた師匠であるだけでなく、人生観を変えてくれた恩人であったともいえます。

二階から舞台を見下ろす 天井には照明は使用されていません

遠藤はライトと共にタリアセンに滞在すること一年半、「親父」「my son」と呼びあう間柄となりました。再度来日し、帝国ホテルの現場を見回るライトの傍らには、いつも遠藤の姿があったといいます。

舞台側から二階席を臨む

すでにご紹介したように、大正十一年(1922)4月、帝国ホテル総支配人の林愛作は建設計画の遅延、建設費の大幅なオーバー(更には帝国ホテル初代館の失火・全焼)の責任を取って支配人を辞職します。また同じ年の7月にライトも日本を離れました。

遠藤は、残された日本人スタッフの手で帝国ホテルだけでなく、旧山邑邸や自由学園の増築・講堂の建築など、ライトの帰国によってし残した仕事についてその基本設計を基に完成させています。帝国ホテル開業と同じ日に発生した関東大震災後は、非常事態に対して応急的な建築(バラック建築と呼ばれます)に奔走します。

その後の遠藤については後で述べるとして、次回は自由学園のその後をご紹介します。