定席の別の言葉で言うと、定打小屋(じょううちごや)ともいい、ドラマ「ちりとてちん」ではこちらを使用しています。
「その定打小屋いうのがあったらそないにええことあんの?」、草若師匠が再び常打小屋建設への意思表明を弟子たちに行った後、草々ら弟子たちに向かって「寝床」の大将の奥さんからこの質問が発せられます。噺家の想いを周囲=視聴者に伝え、共感をもたせるための重要なやり取りです。
この問いへの草々の答えは、
「高座の数が増えるのはええことです。」
「そら、収入にもかかわってくるもんな。」
「いや、まぁそれもありますけど、やっぱり生の落語を人に聴いてもらえるということは大事なことなんです。そないせな、伝わっていきませんし。」
このあと少しやり取りがあって、一番弟子の草原が最終回答を出します。(草若師匠の受け売りでしたが・・)
「究極の個人芸に見えて、実は全く逆、聴く人が、笑う人がいて初めて落語になる。そやから、お客さんが気軽に足運んでもらえる定打小屋はやっぱり必要なんです。」
「落語は師匠から弟子」…それだけでなく聴いてくれているお客さんあっての落語…当たり前のことではありますが、この「当たり前」が数百年続いて今があるということを噺家たちは身をもって感じていたのです。
六代目笑福亭松鶴が第二代上方落語協会会長に就任したのが昭和四十三年(1968)、第一の目標が「会員を50名にする」ことでした。就任当時の会員は35名。協会発足8年でやっと10名が増えたという状態でした。第一目標の「会員50名」を達成したのは就任から2年が経過した昭和四十五年(1970)。大阪は万国博覧会の会場となり人で溢れかえり、落語界にも活気が生まれてきました。協会発足後この時までにに四天王に入門した落語家がテレビ・ラジオで活躍していきます。(以下抜粋+敬称略)
笑福亭松鶴門下 :仁鶴・鶴光
桂米朝一門 :小米(後の二代目枝雀)・朝丸(後の二代目ざこば)
桂小文枝(後の五代目文枝)一門 :三枝(後の六代目文枝)・きん枝(後の四代目小文枝)・桂文珍
桂春団治一門 :春蝶(二代目)
さて、第一目標を達成した松鶴会長は、かねてから「大阪の噺家が50人になったら定席を作る」と言っており、次の目標としてその場所を探し始めます。
大阪の中心部にあり、ある程度の人数を収容できてある程度間口の広い場所、祈る気持ちの会長の願いを叶えてくれたのは、そのものずばりの「教会」でした。
次回「島之内協会での寄席」がスタートします。