救いの手を差し伸べてくれたのは、東心斎橋にある「日本キリスト教島之内教会」の当時の牧師さんの 西原 明さんでした。
西原さんは東京神学大学の大学院を修了後、1年米国留学をした際、そこで現地の教会が劇場やコンサートホールとして開放・利用されているのを目の当たりにします。昭和四十一年(1966)に島之内教会の牧師となった彼はその2年後の昭和四十三年(1968)6月大阪の劇団「プロメテ」の公演会場としてこの教会を開放しました。この教会の劇場は「島之内劇場」と呼ばれるようになります。
松鶴会長と西原牧師との間で「上方芸能もやってみては」ということで、合意が成立します。月に5日間という短い期間ではありましたが、落語専門の「島之内寄席」が実現したのは昭和四十七年(1972)2月21日のことでした。
上方落語協会のホームページには、上方落語と協会の歴史を伝える(実に想いの溢れた熱い)記事が綴られています。そこに「島之内寄席」開設を伝える新聞記事の画像がありました。その記事によると(一部抜粋)
フロアに畳七十七枚を敷き、余った畳は応接間兼楽屋へしきつめた。高座は中座の大道具が引き受け二十日の夜、大道具二十人と落語家二十人が深夜の島之内をよいしょ、よいしょと落語の「へっつい泥棒」よろしくかついで来て、またたく間に礼拝堂に高座を作り上げた。(以下略)
当時の入場料は440円。コーヒー一杯が100~120円くらい、大卒初任給が約4万円の時代ですから、感覚的には今の寄席入場料とそれほど変わりません。
5日間の興行、一日10名の落語家が全員日替わりで50名が演じました。松鶴会長の「噺家が50人になったら」というのはそのあたりからきた話かもしれません。
「島之内寄席」の話が続きます。