おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

念頭に大奥2

源内や田沼意次が目指した世界観をドラマと史実から紹介するという目的から、ドラマや原作漫画のネタバレを含みます。

ドラマでは長崎で青沼に出会い、大奥に連れ帰る役割を果たしていますが、源内は生涯2度長崎に遊学しています。一度目は宝暦二年(1752)頃でまだ二十歳代半ばで、かつ、この頃はまだ高松藩士でした。ドラマの長崎行きを史実に寄せるなら、明和七年(1770)の2度目の長崎行きにあたるでしょう。

平賀源内墓 台東区橋場 お寺は移転も墓だけが同じ場所に残りました

この時の長崎行きについては、同じ本草学者仲間である服部玄広(はっとり のりただ)宛の手紙に、「田沼侯御世話ニて、阿蘭陀(オランダ)本草翻訳のため長崎へ罷越し候」とあり、田沼候=田沼意次の口利き(許可か?)があって長崎でオランダ語を学び、本草学の洋書翻訳を行おうとしていたようです。

江戸時代の代表的な薬種(くすりの道修町資料館)

が、この試みは失敗します。「解体新書」発行のきっかけとなった小塚原での腑分けが翌年明和八年(1771)のこと。前野良沢杉田玄白・中川順庵の三人を中心に、最終的には周囲の蘭学者たちも参加して発行できたのが安永三年(1774)です。この当時誰が挑戦しても、一人では到底完成できなかったでしょう。

源内は本草学に限らず戯作者として活躍していますから、地道な翻訳作業も向いていたとは思えません。洋書翻訳は失敗しますが、西洋画や羅紗(らしゃ)の製法、鉱山の採掘・精錬の技術なども学んで江戸へ戻ってきました。

ドラマでは、軽い赤面疱瘡の患者を探すべく全国各地を歩いて旅してまわっていますが、実際に鉱山採掘のため各地を回っていたのは事実です。

次回はそうした源内と田沼意次の関係についてご紹介していきます。