おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

一橋の貉(むじな)2

一橋家の話から話がずれますが、松平定信の養子縁組の流れで「久松松平家」について触れていきます。話は戦国時代、「徳川」の姓を名乗る前の松平家は東の今川氏、西の織田氏との間で揺れ動いており、幼少期の家康(竹千代)が人質として両家の間を行き来したのはよく知られています。

於大の方(おだいのかた:伝通院)の墓(文京区小石川 伝通院)

家康の生母、大(たい:別称あり)は、尾張国知多郡の豪族、水野忠政の娘です。「どうする家康」では松嶋菜々子さんが演じておられました。天文十年(1541)松平広忠ひろただ:家康の父)に嫁ぎ、翌年居城岡崎城で竹千代を生みます。

この時点では松平氏、水野氏ともに今川方についていたのですが、実家の父忠政が亡くなり、後を継いだ兄信元(のぶもと:「どうする家康」では寺島進さん演)は天文十三年(1544)、今川を離れ織田方についてしまいました。、そのため、今川家との仲を重視した松平広忠は妻を離縁します。

於大の方墓の案内板

実家に帰された大は、天文十六年(1547)に、久松俊勝に嫁ぎます。母子が今川・織田の勢力関係に振り回されていたわけですが、御存じの通り、桶狭間の戦い後、家康は織田信長と同盟を結び、久松俊勝やその息子たち(異父弟にあたるわけですね)にも「松平」の姓を与えて臣下としました。

話が長くなりましたが、これが「久松松平家」の始まりです。その末裔が伊予松山藩(15万石)や陸奥白河藩(11万石)にあたるわけですが、松山藩は田安定邦を養子に迎えた後、それまでの「帝鑑之間」から「溜詰」席へ昇格しています。

これだけでは、何のことかわかりませんが、将軍に拝謁するため江戸城に登城した際、大名や旗本が順番を待つ控席を伺候席(しこうせき)といい、その順番がそれぞれの家の格を表すものでした。

「溜詰」席は黒書院溜之間(くろしょいん たまりのま)で控えることを許され、臣下の家格としては最高位とされていて、御三卿から養子を迎えたことが功を奏したか、伊予松山藩は家格昇格に成功しました。白河藩でも同じことを目論み、その弟である定信の養子縁組が強く望まれた、ということですね。

この話、もうすこし続きます。