おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

上皇 上皇  上皇上皇上皇 明日から上皇2

朝廷からの「宣下断行」の通告に、定信は大いに憤慨します。朝廷で「群議」が行われた少し前、朝廷と幕府(定信)との間で調整役を務め、比較的良好な関係を築いていた鷹司輔平(たかつかさ すけひら)が関白を辞めています。輔平は典仁親王の弟にあたり(鷹司家へ養子に入っていました)、光格天皇からは叔父にあたります。

輔平の辞職と「宣下断行」(輔平は「群議」で反対に回った数少ない公家でした)は、従来の朝廷と幕府の間のルールを外れたもので、定信は朝廷に断固とした対応をとることを決断します。

さて、話はかわりますが、京都三条大橋の東側に、通称「土下座像」として知られている銅像があります。

京阪電車三条京阪駅前のこの銅像・・

この人物の名は「高山彦九郎」といい、上野国新田郡細谷村(現在の群馬県太田市)出身の郷士尊王思想家です。「土下座像」という認識は誤りで、彦九郎が京の都に入る(三条大橋を渡る)前に京都御所(この場所からだと北西の方角)に向かって拝礼したという逸話に基づいて作られました。


銅像の台座に掲げられた 像に関する説明

 

尊号一件」で彦九郎は大名の間を巡り、朝廷を支持する世論形成のための根回し役を果たしています。しかし尊号が幕府によって不許可とされ、宣下断行の中心となった公家が処罰されると、彦九郎も後ろ盾を失い、幕府に監視される存在となりました。

進退窮まった彦九郎は、寛政五年(1793)6月27日に久留米の知人宅で切腹を図り、翌日朝に絶命しています。切腹の前日・前々日と、自身の日記等を水につけて揉み破っており、尊号一件で関与した人物が判明しないよう証拠隠滅ののち自らの命を絶ったのかもしれません。(本人は理由について「余狂気也」と応えていますが)

この一件で死に至ったのは彦九郎のみですが、定信は公家にも処罰を与えています。その話は次回に。