朝廷の公家たちにしても、そのことに異存はありません。天明八年(1788)、権大納言の中山愛親(なかやま なるちか)が江戸幕府に対し、「典仁親王(親王といっても天皇の実父ですが)に太上天皇の称号を贈りたい」旨の進言・通達を行いました。
官位を与えるのは朝廷がすることなので、勝手にできるというものではなく幕府の許しが必要なため、お伺いをたてた、という感じでしょうか。
ところが、時の政権担当者、老中松平定信は「太上天皇とは譲位して引退された元天皇に贈られる称号であるので、典仁親王はその条件を満たしておらず、先例のないことである」として反対します。
「そうですか、それではしょうがありません」と朝廷側が引き下がったかといえばさにあらず、
「後花園天皇(102代)が実父『伏見宮貞成親王(ふしみのみや さだふさしんのう)』に『後崇光院(ごすこういん)』、また後堀川天皇(86代)が『守貞親王(もりさだしんのう)』に『後高倉院(ごたかくらいん)』の称号を贈った前例がある!」
と反論、前例があるのだから認めてもらいたい、と主張します。
()に何代目の天皇にあたるかを示していますが、光格天皇が119代ですから随分前の「先例」であることがわかります。
ちなみに
後花園天皇は15世紀の室町時代、後堀川天皇に至っては「承久の乱」の後に即位した天皇で13世紀の鎌倉時代の天皇です。「禁中並公家諸法度」より前の前例を出してこられても・・と江戸幕府側は苦々しい感情になったことでしょう。
幕府・朝廷の間でこうしたやり取りが続いた後、業を煮やした朝廷は、寛政三年(1791)に「群議」を開き、参議以上40名の公家のうち35名の賛意を得て尊号宣下を強行することを決定します。つまり幕府のいうことは聴かん、ということです。
次回も「尊号一件」が続きます。