おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

上皇 上皇  上皇上皇上皇 明日から上皇3

高山彦九郎の場合、幕府の監視の目が厳しくなり、包囲網の強化から追い詰められた結果、「自刃」という悲劇的な結末となりました。

朝廷に対しては、尊号の宣下は「決してご無用の事」としてきっぱり拒絶するとともに、この騒動を起こした責任者として、議奏を務めていた中山愛親武家伝奏正親町公明(おおぎまち きんあきら)他1名の公家の江戸召喚を朝廷に通告します。

京都御所今出川御門(向かいの同志社大学正門付近で撮影)

強行すれば、なし崩し的に認められるだろうと甘く考えていた朝廷は大慌て。尊号宣下を取りやめ、なので3名の呼出しは無用、とことを済まそうとします。が、幕府(定信)はそれを許さず、寛政五年(1793)、中山・正親町の2名は江戸に召喚され、「対問(たいもん)」と呼ばれる尋問・審理を受けました。結果本来天皇を諫めて幕府との関係の調整を行い、波風が立たぬようにすべきところ、その役割を怠ったとして処罰を下したのでした。

江戸城清水門 

中山愛親は御役御免となり閉門100日、正親町公明の御役御免と逼塞50日の処分を受けました。罰の重さでいうと「閉門」>「逼塞」なのですが、細かいことはおいて、いずれも自宅謹慎・外出禁止の処罰です。

ここまでは公家へムチをふるった定信ですが、一方で典仁親王へ1,000石を加増して経済的な援助を行うなどアメも使い分けることでこの騒動を収束させました。

で、長々とこの事件を取り上げたのは、この事件と、一橋治済を「大御所」とする目論見は、朝廷と幕府の違いだけで図式は全く同じだからです。定信は朝廷に毅然として拒絶を行うことで、治済・家斉父子に対して、幕府においても「大御所問題を認めることはできない」と宣言したのでした。

次回は大御所問題の続きです。