話は変わりますが、今から4年前の平成三十一年(2019)4月30日に、第125代明仁(平成)天皇が退位して「上皇」となり、翌5月1日徳仁(令和)天皇が即位し、元号も「令和」となりました。
当時、譲位によって皇位が継承されるのは202年ぶりと紹介されましたが、202年前に譲位を行ったのが第119代の光格天皇で、今回ご紹介する「尊号一件」(そんごういっけん)の主要人物の一人です。
安永八年(1779)10月29日第118代後桃園天皇が22歳で崩御。皇子がいなかったため、後継天皇が決まるまでの間、亡くなった後も在位期間が続いており、在位期間のエンドは11月9日となっています。
結果次期119代天皇に即位したのが光格天皇で、急遽後桃園天皇の養子として迎え入れられました。後桃園天皇と光格天皇の血縁上の関係は、後桃園天皇からみて
ということなので、この二人の血族関係は7親等離れていて、共通する祖先は高祖父(祖父の祖父、曾祖父の父)の東山天皇(113代)まで遡ることとなります。
養子となって天皇となったのが9歳。小学校中学年くらいの年で即位しました。実父は閑院宮典仁親王(かんいんのみや すけにとしんのう)といい、このとき40歳半ばです。
父は親王、子が天皇ということは、朝廷の位の上では父<子となるわけですが、これはまだしようがないとしても、江戸時代初めに幕府が定めた「禁中並公家諸法度」では、親王の序列が五摂家より下と定められていました。
五摂家とは藤原氏嫡流とされる、近衛家・一条家・九条家・鷹司家・二条家を指します。つまり、公家であるこれらの家臣たちより天皇の実父が序列で下に置かれる、ということが起きたわけです。
「子は親を敬う」という儒教的な道徳からも、光格天皇は父親である典仁親王の字序列を何とかしてアップさせようとと考えました。
それが「父に太上天皇(上皇)の称号(尊号)を贈ろう」ということでした。
「尊号一件」の話が続きます。