おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

解任と懐妊

寛政五年(1793)、定信は将軍家斉と父一橋治済の意向に真っ向から反対、退けました。30歳半ばの老中が20歳そこそこの将軍を諫めたやりとりを「続徳川実記」は次の逸話を伝えています

怒った家斉が傍にいた小姓から刀を受け取り、定信に斬りかかろうとするそぶりを見せます。血気盛んな年齢であり、臣下から意向を退けられ激怒したのでしょう。

その際の日本刀とは関係ありません(広島 頼山陽史跡資料館)

江戸城内で将軍が老中を手討に、となれば前代未聞の事件だったのですが、そうはなりませんでした。その場にいた御側御用取次の平岡頼長(ひらおか よりなが)が一瞬の機転を利かせて叫びます。

越中殿、御刀を賜るゆえ、お早く頂戴なされよ!」

越中殿とは越中守の官位をもつ定信のこと。刀を持った家斉もそこではっと気づいたか、それとも拍子抜けしたか、そのまま刀を定信に授けその場を去りました。

その場はそうして収まったものの、7月23日、相模・伊豆方面の巡視出張中に定信は辞職を命じられ、老中首座並びに将軍補佐の職を辞することになりました。

伊豆 三嶋大社(海沿いの写真がなく・・)

あまりの突然の解任で、当時の落首に

五、六年金も少々たまりつめ、かくあらんとは誰も知ら川

と詠まれました。天明の大飢饉で悪化した幕府財政の立て直しを行っている途中でこんなことになろうとは・・知ら川が白河のもじりであることは言うまでもありません。

こうして寛政の改革自体はここでとん挫しますが、周囲の老中がその政治方針を引継ぎました。

さて、ドラマ「大奥」でも正室・側室との間に数多くの子女を設けていた将軍家斉ですが、正式に側室として認知されているのが16人、実際に大奥内で「お手付き」となった人数は40人以上といわれています。子供の数はというと53人の子女(男子が26人、女子が27人)がいました。名前が確認できるのが53人です。ちなみに全国の墓石を調査・確認した研究があり、それによると、御流体・御血荒(流産や死産)を含む男子が30人、女子が27人、その他に性別・法号・葬地不明が2人の計59名だとか。

さらにドラマでは、一橋治済が家斉の子女を間引くように毒殺していましたが、このあたりの真偽はどうなのでしょうか。それについては次回で。