53人の子女をもうけた家斉は好色でもありましたが、吉宗-家重-家定という血脈が途絶えてしまい、自身が将軍となったことを踏まえて、自身が健康であること、そして子孫を多く残すことを大目標に掲げていた様子が見られます。
白牛の乳から白牛酪(はくぎゅうらく)というチーズを製造して食したり、オットセイの陰茎・睾丸から作った漢方薬を愛用したりと、精力増強に努めています。世に「オットセイ将軍」と呼ばれた所以です。
で、将軍継嗣となった家慶以外は他家へ養子・嫁に出しています。嫁に出した娘の中でよく知られているのが溶姫(ようひめ、やすひめ とも)で、家斉の21番目の娘にあたります。
母はお美代の方といい、史実では家斉の側室の中で最も寵愛されました。
ドラマ「大奥」では描かれませんでしたが、原作のコミックでは母治済が毒に倒れた件があってから、家斉と御台の間はぎくしゃくしたものになってしまいます。
家斉を守るためとはいえ、狂ったふりや、共謀して実母に毒を盛るといった行為に対して不信感を抱いてしまい、お美代の方に溺れていくさまも描かれています。
さて、この溶姫の嫁ぎ先が加賀百万石前田家。大名中最大の石高を持ち、格式も高い家柄です。この前田家の第13代当主で12代加賀藩主、前田斉泰(なりやす)の正室として迎えられました。
文政六年(1823)に婚約、実際の輿入れは四年後の文政十年(1827)で、溶姫が15歳の事でした。この婚約ですが、斉泰にとっては初めてではありません。それまでに高松藩松平家、富山藩前田家、秋田藩佐竹家の姫君との婚約が交わされていました。いずれも婚礼に至る前に姫君が亡くなって婚儀は成立していません。斉泰が相次いで婚約を急いだのは、財政的な負担の大きい、将軍家から縁談が来るのを避けるためだったといわれます。が、佐竹家の姫が亡くなるとすぐ、将軍家から溶姫の縁談が持ち込まれ、断りきれなくなってしまいました。
次回もこの婚礼の話が続きます。