おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

さまよえる葵 だんだん

「大御所時代」をwikipediaで調べると、その期間は寛政五年(1793)から天保十二年(1841)とあります。松平定信の失脚で始まり、家斉の死でピリオドを打ちました。

家斉の死の2年前から老中首座となっていた水野忠邦(みずの ただくに)は、大御所時代の放漫財政や政情に強い危機感を抱きながらも、存命中は家斉やその寵臣たちの権力が強く、将軍家慶と共におとなしく機を窺っていました。

寛永寺将軍墓所 家斉の他、家綱・綱吉・吉宗・家治・家定が眠ります

家斉の死後、家慶と忠邦は一気に家斉の寵臣たちを罷免・粛清して「天保の改革」を始め、農本政策への回帰と奢侈禁止・風俗粛正で幕府財政を立て直そうとします。しかしその改革も、天保十四年(1843)に発した上知令(あげちれい、じょうちれい、とも)が大名・旗本の大反発により撤回せざるを得なくなりました。緊縮財政の徹底は大奥からも総スカンを食い、改革半ばで水野は失脚、幕府の権威は大きく失墜しました。

大政奉還が慶応三年(1867)10月の事ですから、家斉の死後二十年半ば、すなわち彼の将軍在任期間の半分の期間で江戸幕府は消滅してしまったことになります。

家斉が好んで赴いた浜離宮も、後継の家慶の「御成」は99回とそれなりに行ってはいるものの、13代の家定は6回、14代家茂は5回と激減しています。

浜離宮庭園内の「三百年の松」6代家宣の時代に植えられたと伝わります

ペリー来航後は御殿内に鉄砲方を配備し、庭園としての性格は薄れていきました。将軍の「御成」も御殿内に設けられた海防施設の見分等であり、樹木や花を愛でて心を休めるという時間にはなりませんでした。

慶応二年(1866)9月6日、江戸に船が到着します。7月20日に亡くなった家茂の棺が載せられた船は2日に大坂を出航、この日浜御殿のお上り場から上陸し運ばれました。

15代将軍慶喜は、二条城で将軍宣下を受けた後も江戸には帰らず、大政奉還から鳥羽伏見の戦いの敗戦を経て、大阪城から軍艦で脱出します。慶応四年(1868)1月6日のことでした。江戸に逃げ帰った慶喜が上陸したのも同じお上り場からです。

浜離宮恩賜公園 2月下旬~3月上旬は梅と菜の花が楽しめます

その後浜離宮は皇室所の時期を経て、関東大震災や太平洋戦争の空襲で火災の被害にあいます。敗戦後東京都に下賜された「浜離宮恩賜公園」は江戸当時の施設を復元しつつ、庭園も整備され現在に至ります。「遊王」家斉の好んだ庭園は、現在も訪れる人の目を楽しませてくれています。

「大奥」(もうフジテレビでも新たなドラマが始まってしまいましたが、NHKの逆転大奥の方です)シーズン2に合わせ、長々と田沼時代から家斉の時代までを追ってきましたが、最後までお付き合いいただきありがとうございました。