おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

打算の多産2

幕府に対する人質の意味から、江戸時代の大名の正室・嫡子は皆江戸に住んでいました。大名や正室が住んでいたのが各藩の江戸上屋敷です。加賀前田家の上屋敷江戸城の約3km北の本郷(文京区)にありました。

前田家が当初財政負担からこの縁談を断ろうとしたと前回ご紹介しましたが、その負担とは壮麗な婚儀の用意はともかく、正室として迎えるための専用の御殿を建設する必要があったからです。断り切れず姫を迎えることとなった加賀藩上屋敷の中に新たに御殿を建てなければならなくなりました。

この御殿のことを「御守殿」(ごしゅでん)と呼びます。もともとは将軍の娘で、官位が三位以上の相手に嫁いだ者を敬って「御主殿」と呼んでいましたが、その住まいもそれにならい、そう呼ばれるようになりました。御殿には門が必要です。当時の権威の象徴は「朱」色でしたので、この時建てられた「御守殿門」も赤く塗られました。

本郷にある赤い(朱い)門、そう東大の赤門は溶姫が輿入れする際の御殿の門として建てられました。

前田家「御守殿門」通称「赤門」

この輿入れの際、溶姫は大奥から52人の女中を引き連れて「御守殿」に入ったことが伝えられています。

溶姫は良く知られた降嫁の例ですが、他の成年した姫君も御三家や大藩へと嫁ぎ、男子はというとこれまた他家へ養子に入り、藩主の座に就いています。そういう意味では、家斉の多くの子供たちは大名を血族化して統制する役割を果たした、ともいえます。

余談ですが、前田家は明治以降もこの本郷に屋敷を構え、そこに東京帝国大学が隣接していました。時代は流れ、大正十二年(1923)の関東大震災帝国大学は大きな被害を受けます。

その後、震災からの帝国大学復興計画として

①東京郊外への移転し、100万坪の規模として「大学都市」を建設する

②東京近郊の代々木に30万坪の規模で移転

③現在の本郷の敷地を15万坪として再興

が案として挙げられました。当初②案の実現に動いていたのですが、あてにしていた代々木の陸軍用地の取得が難しくなり、③案が実現化しました。

大正十五年(1925)本郷の前田侯爵邸と、駒場にあった農学部実習地4万坪を交換されます。時の前田家16代当主利為(としなり)候が駒場の地に昭和四年(1929)から五年にかけて建てたのが「旧前田家本邸」です。

駒場公園内に残された「旧前田本邸(洋館)」

洋館はイギリスのチューダー様式を取り入れ、当時個人の邸宅としては東洋一と評されました。現在も駒場公園内に残され、内部も無料で公開されています。

さて、家斉の話から昭和の洋館まで話が流れてしまいましたが、次回もまた家斉についての話が続きます。