毎年初詣で多くの参詣者を集めるお寺に、川崎大師があります。初詣の参詣数でいうと明治神宮、成田山新勝寺とここ川崎大師が常に1-3位となっているようです。(ちなみに4位が浅草寺、5位が伏見稲荷大社)
川崎大師は通称で、正式な名前は平間寺(へいけんじ)といい、平安時代の大治三年(1128)にこの地の漁師平間兼乗(ひらま かねのり)という漁師が網にかかった弘法大師の木像を祀ったのが始まりといわれます。兼乗は無実の罪で故郷尾張を追われてこの地にたどり着いた身でしたが、功徳を積んだ結果無実の罪が晴れ、故郷に戻ることができました。そのため「厄除け」に霊験あらたかなお寺として信仰を集めています。
お大師さまの像を祀っているので、当然真言宗のお寺です。その中でも「智山派」といって、総本山は京都にある「智積院」。長谷川等伯の襖絵や池泉鑑賞式の庭園などで知られ、川崎大師は智山派の大本山となっています。(成田山新勝寺と高尾山薬王院も同じくこの派の大本山です)
さて、川崎大師の人気が一気に上がったのは、家斉の文化・文政期でした。元々、実父の一橋治済が川崎大師に参詣していたこともあり、家斉も寛政八年(1796)に前厄(23歳)の時に初めて参詣、翌々年(後厄:25歳)には無事でいられた御礼を兼ねて参詣を行っています。
次の前厄(41歳)の文化十年(1813)、家斉は前回と同じく川崎大師に参詣します。この時に寺の貫主を務めていたのが、第34世の隆圓(りゅうえん)上人でした。上人は安永五年(1776)の生まれで、前貫主の隆範(りゅうはん)上人の下で修業を積みました。さらにその後総本山智積院での11年の修業ののち平間寺へ帰山、師匠隆範の推挙を受け貫主となったのです。まだ30歳半ば、そうとう優秀な僧だったのでしょう。
将軍をお迎えするとなると、お寺としては名誉であるとともに、相当な準備が必要となります。山内の整備と、お迎えしての厄除けの大掛かりな儀式の計画など、隆圓上人は陣頭指揮をとりました。しかしその御成りの直前、隆圓上人は急死してしまいます。
突然のアクシデントに川崎大師は騒然となりますが、その続きは次回に。