おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

大師の前の弔事2

30歳半ばの急逝、将軍参詣のプレッシャーや心労が原因だったのでしょうか。夜を徹しての準備が行われていたといいますから過労死に近いものだったのでしょう。お寺としては「貫主が亡くなったので御成りは中止に」などと言えるはずもなく、上人の死を隠したまま将軍をお迎えし、決められたとおりの儀式を無事終えました。

上人の死を隠し、厄除けの儀式は行われました

その後、上人の死を将軍に「隆圓上人は身代わりとなって亡くなられました」と伝えました。それを聞いた家斉は大いに喜びます。それまで平間寺に与えられていた朱印は6石でしたが、50石に増額されます。それだけでなく、世継ぎの家慶、さらに次代の家定も前厄・後厄に参詣するようになりました。参詣が恒例となったため、将軍専用の御成門まで建立されました。

また「将軍の身代わり」の話は庶民にまで伝わり、川崎大師にお参りする人々の数が一気に増え、門前にも参詣客をあてこんだ料理茶屋なども急増し、人気の観光地として発展していきました。

ちなみに今のような「初詣」の風習は明治時代になってからで、江戸時代までは家を代表し一家の主人が年末から元旦にかけて地元の氏神様に泊まりこむ(年篭り)という習慣がありました。そのうちに泊まり込みをせずに年末と元旦に分けてお参りするようになり、これを「元日参り」といいます。初詣に近いといえば近いですが、あくまでお参りするのは「氏神様」で、どこへお参りしてもよいというものではありませんでした。

昼も夜も多くの参詣客でにぎわいます

明治三十二年(1899)1月、川崎~川崎大師間に「大師電気鉄道」が開通しました。日本で三番目の営業用電車は、川崎大師への参詣客を見込んで建設されました。その大師電気鉄道、同じ年に社名を「京浜急行電鉄」に変更、現在に至っています。その路線のキャッチフレーズが「初詣は川崎大師へ」。その意味では川崎大師は「初詣発祥の地」といってもよいかもしれません。

余談が長くなりましたが、家斉と川崎大師の話はここまで。

次回も将軍家斉の話が続きます。