おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

大坂の中心で 痛ぁい!を叫ぶ

造幣局の通り抜け」として春に桜の名所となっている造幣局、このあたりが天満一丁目にあたります。その正門前の道路を西に100mほど西に進むと「大塩の乱槐の碑」があります。当時ここは東組与力、朝岡助之丞の役宅庭跡でした。その庭には槐(えんじゅ)の樹が植えられていました。2月19日、最初の砲弾がこの庭に撃ち込まれました。

大塩の乱 槐(えんじゅ)跡の碑

弾痕を残した樹はその後樹齢200年を経て樹は枯れてしまいます。その場所には新たに若樹を植えたとのことですが、現在では碑が残るのみとなっています。
元々、決起はこの日の夕刻の予定でした。というのはこの日は東西の町奉行が天満郷を巡察し、申の刻(午後四時ごろ)に与力の朝岡宅に入ることになっていたのです。

洗心洞、すなわち大塩の屋敷の向かいが朝岡邸であり、大塩の計画の中ではここで両奉行に砲撃を加え爆死させる予定でした。もしそれが成功していれば、大坂は指揮官不在の状態となり、大混乱に陥ったかも知れません。

造幣局周辺の史跡案内地図 ⑦が洗心洞 ⓽が槐の碑(朝岡邸)

しかし、計画は奉行側に漏れてしまいます。まず、十七日夜、門人の平山助次郎がひそかに東町奉行を訪れ、計画や日時、一味の名前を述べました。それを聞いた跡部は自身の書いた書面をもって江戸に届けるよう命じます。ただし、この時点では訴えの内容が事実かどうかは疑わしく、大塩の捕縛までは至らず、とりあえず巡察については延期して様子を見よう、ということになりました。

密告者はこれだけではありませんでした。19日の夜明け前、西町奉行堀伊賀守の屋敷に、吉見英太郎と河合八十次郎という2名の若者(16歳と18歳)が大塩の檄文と東組同心で大塩の同志であり、血判にも署名していた吉見九郎右衛門の訴状をもって駆け込みました。吉見九郎右衛門は息子を密告の使者として送ったのでした。

証拠となる檄文と、具体的な反乱計画まで書き記された訴状、これにより大塩の反乱の意図は奉行側に完全に知られてしまいました。大塩はやむなく決起を早めることとなるのです。次回も大塩の乱の話が続きます。