おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

大坂の中心で 痛ぁい!を叫ぶ2

決起の情報が漏れてしまったことを大塩がどのように知ったか、をここで明らかにしていかないといけません。

大阪西奉行の堀伊賀守は、参加者に名を連ねていた門人2名が「泊り番」として奉行所内にいることを知り、両名を捕縛しようとします。それに気づいた両名は逃亡を図りますが、一人は惨殺され、もう一人は命からがら脱出、大塩邸に逃げ込んだのでした。

「洗心洞の碑」と同じく造幣局宿舎内にある与力役宅門(移築)

大塩はこれにより、奉行側が鎮圧に乗り出してくるであろうことを知り、軍装を整えると五つ時(午前8時頃)、役宅の土塀を引き倒し、朝岡邸に大筒を撃ち込みます。(その時に朝岡邸庭の「槐」に弾痕が残ったのでしょうか)

さらに自身の邸宅(=洗心洞)にも火をかけると西へと向かいます。大塩父子と門人約20名は西に向かい天神橋筋に出ました。(下の地図の「東天満一丁目」の左=東へ約500mが蜂起場所なので天神橋筋までは約800m)

現在の天満周辺の町名図(上が南、下が北方向です) 

蜂起の直前、周囲の窮民に参加を促す際、「天満のあたりで火の手が上がったら駆けつけてくるよう」伝えていたことから、このあたりで軍勢は近郷の農民たちを含め100名程度に増えています。

一行は大筒を撃ち、火矢を放ちながら槍・長刀を振り回し進みます。出会った人々に、味方に加わるよう勧めながら、不承知なら斬り殺す、と脅します。

物見高い大坂の庶民も、目の前で繰り広げられる市街戦に野次馬的に駆けつけたところに、先のような脅しで巻き込まれて軍勢は300人にも昇る数となりました。

大阪天満宮 現在の社殿は弘化二年(1845)再建

このときの火災を「大塩焼け」といい天満を中心とした市街地の約5分の1を焼失するのですが、このブログにたびたび登場する大阪天満宮の社殿もこの時焼失しています。

軍勢は天神橋筋を南下し、天神橋を渡ろうとしますが、対岸側の橋板が奉行側の手勢によて破壊され渡ることができません。いったん引き返し、さらに西に進みます。

この時まだ鎮圧すべき奉行所側もまだ表立った攻撃を行っていません。大塩の乱、続きます。