おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

葵に塩2

大塩が潜伏していた美吉屋五郎兵衛は、塩田五郎兵衛といい、大塩の妾「ゆう」の姉の「つね」が五郎兵衛の妻でした。また、大塩家四代の佐兵衛の妻の実家が塩田家ということで、遠縁にあたります。染物屋として大塩家に出入りし、乱の際の「救民」の幟や旗などは五郎兵衛が染めたものといわれます。

現在 靭公園内に移された「大塩平八郎終焉の地」碑

潜伏の場所は、「淡路町の戦い」の地から西の方向へ1.5km足らずという近い距離です。参加した門弟達が捕縛(自死含む)されたのが八尾市(大阪府)や京都など大坂市街からは離れた場所だったことを考えると、探索の手もそれにつられて市中より外を向いていて、大坂方の探索網の盲点だったかもしれません。
五郎兵衛の屋敷の側に「背割下水」(せわりげすい)が通っていたことも、人目につかず潜むことができた理由の一つでした。「太閤下水」とも呼ばれ、豊臣秀吉による大坂城築城の際に原型が造られ、さらに江戸期に拡張・整備されました。(現在もその一部は改良されながら現役で活躍中)

京都と同じように、大坂の街も碁盤の目のように道が交差していますが、道路に面した建物の背中(裏口)の向き合ったところに下水溝が掘られているのが「背割」の名の語源です。幅は標準で1尺(約30cm)から4尺(1.2m)、広いところは1~2間(1.8~3.6m)、記録によるとこのあたりの下水溝は幅90cm高さは1mと、通路としては十分なもので、さらに天井は石で蓋がされている「暗渠(あんきょ)」でした。

大坂の町割りと下水道のイメージ(大阪市立住まいのミュージアム

更に美吉屋の生業は染物屋、大量の水を使うので仕事場の下水溝もそれなりの規模だったと想像できます。つまり大塩は大阪の地下に走る下水網を地下道替わりにして美吉屋宅に入り、そのまま匿われたのでしょう。
反乱の5日後の2月24日に大塩は五郎兵衛に匿われましたが、潜伏1ヶ月超の3月27日に最期を迎えます。その最期については次回に。