おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

葵に塩 番外編 平野へGO

 

前々回「葵に塩3」で、美吉屋の奉公人が平野郷に戻った際に漏らした言葉が大塩の潜伏先判明のきっかけになった、という話をご紹介しました。本日その平野の街歩きをしたので、この機会に平野郷の歴史について少しご紹介します。(大塩の流れで訪れたのではなくて、「環濠集落」としての平野を見に行ったのですが)

平野郷は平安時代初期に蝦夷征討で知られる坂上田村麻(さかのうえのたむらまろ))の子・広野麻呂(ひろのまろ)の荘園でした。「広野荘(ひろのしょう)」がなまって「平野荘(ひらのしょう)」になったようです。その後寄進により約500年宇治平等院の荘園となっていましたが、中世ここに「大念佛寺」が成立し、末吉氏を中心として周りに堀を巡らせた集落が形成されました。

 

大念佛寺 改修中の本堂に覆いがかかっています

大念佛寺融通念仏宗の総本山で、その本堂は大阪府下最大の木造建築物です。現在「令和の改修」中のため本堂は隠れていますが、左に見える建物「瑞祥閣」も二層建築であることを考えるとその大きさは想像できます。

その大念佛寺の南門から境内に入ったのですが、横に案内板が立てられていました。

大念佛寺 南門の案内板

この南門が当時の古河藩の陣屋の門を移築したものとのこと。

大念佛寺南門

そのことは全く知らずに大念佛寺を訪れたので、「おっ!」と思い今回の番外編となったわけです。

戦国時代に堺と同じく環濠集落として独立した立場を取っていましたが織田信長に降伏、その後豊臣秀吉によって環濠は埋められ集落の有力者たちは天王寺などに追放・移住となりました。そういういきさつがあり、親徳川の立場で大坂の陣では秀忠の本陣がこの場所に置かれたそうです。

江戸初期には天領となっていましたが、川越藩・高崎藩領の時期を経て正徳三年(1713)から古河藩の領地となりました。古河藩も藩主の交代が激しい藩でしたが、宝暦十二年(1762)から土井利里(どい としさと)が唐津藩から古河藩に国替えとなり、それに伴って平野郷の領主も土井家に替わった次第です。

大念佛寺から東へ300mほど行ったところに平野小学校があり、その門の前に「古河藩陣屋」の碑が建っています。

古河藩陣屋跡の碑

「環濠集落」としての平野郷については、堺や久宝寺などと併せて改めてご紹介したいと考えておりますが、今日はざっとした歴史と古河藩との関りをご紹介しました。

次回は通常の話に戻ります。