大坂天満の真中で さかさ馬からおっこちた あんなよわい武士見たことない 役高三千ただすてた
大塩の乱のあと、大阪の庶民の間で上のような「ざれ唄」が流行りました。(「役高三千」のところを「鼻紙三帖」とするものもあります)
乱の鎮圧に乗り出そうとした両奉行が二人とも、砲声に驚いた馬に振り落とされてしまう醜態を演じ、そのことを揶揄した唄です。「あんな弱い武士見たことない」のところに無様さに呆れ嘲る心情が表れています。
落馬した場所が大阪天満の真中=大阪天満宮の境内という巷説がありますが、天満宮の場所は天満橋より北側です。ということは、落馬した後、戦うことなく一目散に逃げて天満橋を渡り、反乱勢が渡ってこれないように橋を破壊したのでしょうか・・
「落馬」の事実についてもやもや感じていたのですが、この件について中公新書「大塩平八郎の乱 幕府を震撼させた武装蜂起の真相(薮田 貫先生著)に記載がありました。
この項はこの本を参考にご紹介をしていますが、もっと深く詳細に乱の背景が描かれているので、詳しくお知りになりたい方はぜひご一読を。
奉行所側が反撃した時期は前回の話よりまだ少し後の事なので、まずは天神橋が渡れず、西に向かった大塩軍のその後の動きを続けます。大塩軍は難波橋を渡り正午ごろ北浜へ入りました。
難波橋を南下すると鴻池をはじめとする大阪の豪商たちが集まった地域に入ります。いわゆる「天下の台所」の中心部にあたります。大塩勢は二手に分かれてこの地域を集中的に攻撃しました。
鎮圧する奉行所側の中心となったのは玉造定番遠藤配下の与力・同心たちで、特に活躍したのが坂本鉉之助(さかもと げんのすけ)でした。坂本は大塩の乱に関する手控え「咬菜秘記」(こうさいひき)を遺していて、それにより反撃から大塩軍の敗走に至るまでの流れや、落馬の真実なども知ることができます。
大塩の乱、奉行側の反撃は次回に。