3月末に大塩親子は焼死したものの、この事件関係者への処分が終わったわけではありません。最終的に1000人以上が取り調べられ、そのうちの800人ほどが処分を受けていますが、それが決定したのは乱から1年半を経た天保9年(1838)8月のことでした。
9月18日、大坂の南外れにある鳶田(とびた、飛田とも)刑場にて、大塩親子ら首謀者20名が公開処刑されました。といっても大塩親子をはじめ、19人はすでにこの世の人ではありません。「塩詰死骸引廻之上、磔(しおづめしがいひきまわしのうえ、はりつけ)」、字の通り、塩漬けにした遺体を市中引廻したうえで、改めて磔の刑に処す、というもので、もっとも重い刑罰です。
ちなみにこの刑罰10年前、「シーボルト事件」で日本地図をシーボルトに渡したとして獄死した高橋景保(たかはし かげやす ドラマ「大奥」には出ませんでしたが、原作コミックで医療編に登場←ただしその最期には触れられていませんが・・)も塩漬けにした遺体を「斬首」の刑に処せられています。
唯一生きて刑罰を受けたのは竹上万太郎という大塩門弟の弓奉行同心でした。連判に署名した彼は、乱の朝いったんは大塩邸に駆けつけるも、「家族を(他所へ)立ち退かせたうえで存分に働きたい」といったん自邸に戻り、実際に家族を去らせたうえで上司弓奉行宛に手紙(願書)を残して逃亡しています。いったん播磨(兵庫県西部)まで逃げますが、母親が心配になって大坂に戻ったところを捕縛されました。
通常の磔は、「キ」の字形の磔柱に縛られ、処刑人となる非人が二人左右両側に立ち、持った槍で交互突いて絶命に至らしめます。その後も数十回突いた後、最後に「止めの槍」といい、喉の部分を一刺しします。遺体はその後二晩三日その場に晒すしきたりでした。
塩漬けにした死体についても同様に行われますが、血が飛び散るようなことはないものの、その光景は見るに堪えないような痛ましいものだったのではないでしょうか。
その他の人々も美吉屋五郎兵衛以下11名が引廻しの上打首獄門、3名が死罪、大塩の近親者ら4名が遠島、3名が中追放の刑罰を受けました。
こうして「大塩平八郎の乱」はいったん終結したものの、幕府の権威は大いに揺らぐこととなります。次回は家斉の最晩年とその後に触れます。