おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

葵に塩3

潜伏先が漏れたのは、美吉屋五郎兵衛のところに奉公に来ていた娘が、親の病気で暇をもらい、実家の平野郷に戻ったことでした。平野郷は現在の大阪市の東南部、平野区のあたりですが、この地は当時の大阪城代、土井利位(どい としつら)の領地でした。

利位は古河藩(現在の茨城県古河市)藩主ですが、このあたりに飛び地の領地を持っていたのです。

大阪城と平野の位置関係

娘が実家で話したのが、「美吉屋では朝米櫃にご飯を入れ茶碗を添えて棚下に置いておくと、翌朝に中身が無くなっているので、またご飯を入れて置いておく」ということでした。これが役人の耳に入り、大塩の幟を染めた美吉屋のところに潜んでいると推測されたわけです。これが3月26日のこと。

3月27日すなわち翌日の夜明け前に古賀藩家老鷹見泉石(たかみ せんせき) 率いる捕方が美吉屋を取り囲みます。泉石は古賀藩の家老でありながら蘭学者でもあった人物で、同時代の渡辺崋山(わたなべ かざん)の描いた肖像画(国宝)で有名です。

泉石はその日記にも「是非是非生捕にいたし候心得にて」と遺したように、なんとか大塩を生かして捕まえようとしていました。生かしてその言い分を聞き、この乱の真実を知りたいと考えたのかもしれません。

泉石が12歳から60年以上書き留めた「鷹見泉石日記」は、この捕物についてもしっかりと遺していました。配下が「中斎先生(「中斎」は大塩の号)ともいわれるもの、ひきょう千万、出てしょうぶせい!」「大塩平八郎といわれるもの、しんみょうに出でい!」などと家にこもる親子を挑発するさまも描かれています。

北区末広町の成正寺にある大塩親子の墓

しかし、大塩親子を生きて捕えることはかないませんでした。背割下水の抜け道を通った親子は乱に使用した火薬も美吉屋に運び込んでおり、その火薬に火をつけ自決したのです。火は直ちに消されたものの、黒焦げた2つの死体が残され顔の判別も不可能な状態であったと伝えられます。本当の大塩親子かどうかわからぬまま、ずんぐりとした焼死体を大塩平八郎、もう一方が養子格之助として塩漬けにされました。

次回、大塩の乱後の話が続きます。