おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

葵に塩

反乱に伴う戦闘の意味では半日で鎮圧されたといえますが、首謀者の大塩親子は40日あまりを大阪近郊で潜伏しており、大坂の東西奉行どころか江戸幕府全体がその存在に振り回されます。

逃げおおせると考えたのか、再び決起を考えたのか、というとそういうことではなさそうです。大塩にはすぐに捕まるわけにはいかない理由がありました。

大塩の潜伏先 美吉屋五郎兵衛宅の跡地 碑は靭(うつぼ)公園に移されています

靭油掛町(うつぼあぶらかけちょう)の染物職人、美吉屋五郎兵衛宅の裏庭にあった隠居宅に潜伏していた大塩は、五郎兵衛に対し、「いまだ時節至らざるにつき今しばし忍ばせよ」と語ったといいます。大塩は乱の直前(18日夜)、「建議書を」江戸に宛ててひそかに出しており、「時節」とはそれに対する返事・反応を意味していました。せめてその返事を見ぬまま死ぬのは余りに残念、なんとかそれまでは生き延びたい、という気持ちだったのでしょう。

しかしこの建議書、江戸に届いたものの発送先に届けられることはありませんでした。大坂町奉行所が差戻し命令を出したため、大坂へと差戻しの途中、箱根の関で発見されそこで押収、大塩の想いは届かなかったのです。

終焉の地の碑の移転に関する案内板 移転の碑は次回紹介予定

大塩が潜伏している間にも、乱への参加者たちは各地で捕縛されるか自決しています。捕まった者たちは、現在の中央区高津付近から天王寺区生玉町付近にあった高原溜(たかはらため)に護送されました。「溜」(ため)とは、本来病気の囚人を保護する施設なのですが、当時の大坂の牢獄は「松屋町(まつやまち、まっちゃまち)牢獄」といって堺筋本町の東側にありましたが、この乱の「大塩焼け」で焼けてしまったため、代替施設として使用されたようです。

護送先での勾留環境は過酷窮まるもので、収監された中で、翌年8月の処分決定まで生きていた者はたった一人、自決・獄死した者の遺体は塩漬けにして保存されました。

さて大塩捕縛の時が近づきますが、その話は次回で。