前回安治川の写真を載せました。手前に大きく映っていたのが阪神なんば線の鉄橋、奥がJR大阪環状線の鉄橋です。この2つの鉄橋は300m強離れています。地図で示すとしたの地図のような位置関係になっています。
上の地図の河口寄り(左側)には国道43号線、阪神高速の道路橋が架かっていますが、川面より相当上を走っています。更に上流方向は約2km上流の中之島までこの川に橋は架かっていません。
前にご紹介した通り、安治川は九条島を開削して作られましたが、その水路部分には橋が架けられておらず、南北に分断された渡し舟が往来していました。橋を架けると大型船が通行することができないためと思われます。河村瑞賢は洪水対策だけでなく、大坂の水運の観点からもこの工事を行ったのでしょう。
が、南北の交通を考えると川を渡るのにいちいち渡し舟を待つ、というのは時間を大きくロスすることになります。さらに大阪湾と川を行き来する船と渡し舟は航路が交差するので、安全面からも問題がありました。通常の架橋には相当の高さを要するし、可動橋(跳ね橋)の案もありましたが実現はしませんでした。
それを解消するため、昭和十年(1935)12月8日から「安治川隧道(すいどう:トンネル)」の工事が始まりました。安治川の河底を横断する長さ80.6m、幅11.4mのトンネルは昭和十九年(1944)9月15日に完成しました。
南北双方にエレベーターと階段が設置され地下に降り、トンネルを渡って対岸で同じくエレベーターか階段で地上へ。自動車もこの方式(人用と別に車用エレベーターを設置)で川を渡っていました。大阪の空襲にも損傷を免れています。
戦後の昭和36年には交通量はピークとなり、1日に歩行者約8500人、自転車約4600台、自動車約1200台を記録。その後、河口側に国道が通ったこと、トンネル内の排気ガスとエレベーターを待つ車の渋滞の問題から昭和五十二年(1977)に自動車の通行は中止されました。が、自転車と歩行者の通行は今も行われています。
日本初の沈理トンネル、「安治川隧道」は平成18年(2006)に、「日本土木遺産」に認定されました。一日の利用者数は6000人にも上り、地元市民にとってかけがえのない交通手段です。
次回はまた新田開発の話に戻ります。