おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

江戸を(つっ)きる

吉良の首を挙げた浪士達は、亡き主君・浅野内匠頭の墓前に首を供えるため、墓のある泉岳寺へと向かいます。今だと吉良邸の最寄駅、両国の隣駅「浅草橋」から「泉岳寺」は都営浅草線で17分(8.3km)で結んでいますが、当然浪士たち行列をなして徒歩で向かいます。今の時間でいうとおそらく午前六時頃。

古地図アプリ「大江戸今昔巡り」は幕末の地図データを用いているので、吉良邸の表示はありませんが、正門や本所松坂公園のあたりは「松平越前守家来 本多内蔵助邸」となっています。後に住むのが大石と同じ「内蔵助」とはなんとも不思議な縁です。

幕末の吉良邸周辺 画面中央右の赤い〇が吉良邸正門です
また当時の両国橋は、今より約50m南にありました(回向院の西の黒っぽい橋)

事前の申し合わせでは、無縁寺(回向院)にいったん引き払って集合する、無縁時に入れない場合は両国橋東の橋際の広場に集まることとする、としていました。

回向院境内 鼠小僧の墓もあります

回向院で一行は休息を申し出ますが、回向院の門は閉ざされています。回向院の僧侶は暮れ六つ以後明け六つ以前は誰も寺内に入れない決まりとなっている、と断りました。

明け六つというのは、今の定時法と異なり、空が白んで薄明が始まった時期をいいます。十二月の夜明けは遅く、まだその時間に達していなかったのかも知れませんが、それよりも謎の武装集団とのかかわりを恐れて断った、というのが本当のところではないでしょうか。一行は回向院に開門を拒絶された後、両国橋東詰で休息しながら上杉家からの討手を迎え撃つ準備をしました。大石は吉良邸に押し入った後、必ず江戸城桜田門そばの上杉邸から討手が向かってくるものと考えていました。

実際に吉良の実子である藩主上杉綱憲は、討ち入りの情報を受けるとすぐに救援を出そうとします。しかし兵を揃えたり情報を収集するのに手間取る間に、幕府老中から高家畠山下総守義寧(よしやす)を通じて出兵差止め命令が出されたため、派兵を取りやめています。
そんなこととは知らない大石は、正面からの上杉家、後方から津軽家の追手を警戒、両国橋は渡らず南下して永代橋を通過、築地では織田家下屋敷を避け、軽子橋を渡り築地川の対岸を通っっていきます。鉄砲洲にてあった赤穂藩邸に向かおうとしましたが、奥平家と小浜酒井家の尋問に遭い藩邸跡には近づけません

引き上げの際の隊列

先に進んだ愛宕下でも伊達家に中屋敷通行を阻まれたことから、迂回して金杉橋(浜松町駅の南西)を通行、札ノ辻(田町駅西側)を経て泉岳寺に到着しました。到着は午前八時ごろだったとされています。

泉岳寺での一行の行動については次回に。