おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

新田花実が咲くものだ2

前回「大和川の付替工事」についてご紹介する、と書いたのですが、江戸時代の大坂の治水工事の歴史をご紹介するにあたって、付替工事の20年前、貞享元年(1684)に行われた安治川(あじかわ)開削工事について触れておくことにします。

安治川 手前の鉄橋は阪神なんば線安治川橋梁 奥はJR環状線の鉄橋

さて、大坂における大きな河川は2つ、淀川と大和川です。前者は琵琶湖から、後者は「大和」の名からも推測できる通り奈良(桜井市北東部)から流れてきます。現在でこそ大和川大阪市堺市の境界線となって大坂湾に注いでいますが、これは付替工事によるものです。それ以前は幾筋にも分かれながら北へ曲がり、大阪天満橋近辺で淀川に合流していました。

流域では叛乱の被害が相次ぎ、明暦三年(1657)河内国河内村今米村(現在の東大阪市)の庄屋、中甚兵衛(なか じんべえ)が江戸へ行き、付替えの嘆願を行っています。それ以降、甚兵衛は「北へ曲がる流路を西に付け替えていただきたい」と訴えを繰り返しました。46年後、最終的にその願いは聞き届けられているわけですが、付替え工事が検討されている中、「付替工事を行わずとも、洪水対策はできる」との意見が採用され、そのための工事が行われることになりました。

その意見を出したのが江戸時代初期の豪商、河村瑞賢です。

安治川のほとりに建つ河村瑞賢紀行碑

東北地方から江戸に米を運ぶための「東廻り航路」「西廻り航路」を開いた瑞賢は、淀川の河口にあった九条島が川の流れを妨げていることが原因で水害が発生しており、この島を開削し、曲がりくねった古い川を真っすぐな川を造れば水害は治まると考えたのでした。

貞享元年(1684)に始まった工事によって九条島を切り開き、3kmに渡る直線の水路を作りました。当初「新川」とか「新堀川」と呼ばれていたこの川は、元禄十一年(1698)にこの地が安らかに治まるようにという願いも込めて「安治川(あじかわ)」と命名されました。ちょっと話は逸れますが、次回はこの安治川にある珍しいトンネルをご紹介します。